元中日の市原圭氏、星野さん金言で自営業へ転身決意

厨房で腕をふるう市原圭氏

<ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ>

かつてプロの世界に挑戦した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」。今回はダイエー、中日、近鉄でプレーした市原圭氏(46)です。現在、大阪市内で飲食店を営む市原氏に第2の人生を聞きました。【聞き手・安藤宏樹】

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-02年、近鉄を最後に現役引退後はさまざまな経験をされたようです。まずスポーツ用品メーカーに就職してサラリーマン生活がスタートします。

市原氏 引退するまでその後のことは何も考えていませんでしたが、野球に携わる仕事をしたいなと思っていたところ、あるメーカーを紹介していただきお世話になったのですが、30歳で初めての経験ばかり。高校からプロ入りして、アルバイトも経験したことがなく、パソコンも使ったことがありません。だれもが通る道だとは思いますが、いい勉強をさせていただきました。

-2年ほど勤務された後、イベント会社に転職されています。

市原氏 電気店のイベントにアルバイトを派遣したりする仕事でした。最初は自分も経験が必要と思い、ハッピを着てチラシを配ったこともありました。「この年になってからか」と思いながらも「これも世の中」と…。そうこうしていたら会社が音楽事業部を立ち上げました。マネジャーをやってくれないかと言われ、簡単に引き受けてしまったのですが、これがまた大変でした。まったくノウハウがない中で歌手を売り出していかなくてはいけません。業界のいろいろな方にお会いし、ノウハウを学ばせてもらうことから始めました。

-そのイベント会社を数年で退社。飲食店への転身を考えはじめるきっかけは。

市原氏 音楽業界でいろいろな方に出会い、勉強させてもらう中で、自分でも何かしたいなあ、という気持ちが芽生え始めました。もちろん迷いはありました。そこで頭に浮かんだのが「迷ったら前に出ろ」という星野(仙一氏=18年死去)さんの言葉でした。

-自営業への転身は中日時代に星野監督から受けた影響もあった。

市原氏 星野さんのもとで野球をしていろんな意味で自分を強くしてもらった、弱い部分を前向きにさせてもらったと思います。焼き鳥店で3年ほど修業して、40歳のときに最初の店を立ち上げました。ただ、開店当初は気負いまくっていたというか1年目は休みも取らず、周囲には迷惑をかけた部分もあったと思います。幸い、周りのお客さんや友人の助けも借り、なんとかやっていたのですが、一度リセットしようと思い、3年ほど前に現在の場所に移り、完全予約制のお店として営業することにしました。

-上宮高校では1年生の夏からベンチ入りしていたとはいえ、プロ入りする際に迷いなどはなかったのでしょうか。

市原氏 行けるものなら行きたいと思っていました。高校1年のときに3年生だった元木さん(現巨人コーチ)や種田さん(元中日)とノックを受けた経験から守備に関しては目安のようなものがあり、父は「守備力で勝負できる」と後押ししてくれました。

-父・稔さん(72)は早稲田大から南海にテスト入団。その後はブレイザー監督のもとで阪神、南海で通訳やコーチ、その後は近鉄、巨人で編成部門など多彩なキャリアを積まれています。お父さんの影響も大きかったのでしょうか。

市原氏 父は幼いころほとんど家にいなかったので、野球を教えてもらった記憶はありません。最近になって入団テストは年齢を偽って受験していたことや、今でも高校野球の指導者になりたいことなど、少しずつ野球の話をするようになりましたが、現役時代はほとんどそういう機会はありませんでした。近鉄に移籍するときも本音では避けたかったほどでした。

-中日から近鉄に移籍したとき、稔氏は近鉄球団に在籍されていました。

市原氏 ただ父は本当に高校野球の指導者になりたくてプロの世界に飛び込んだようなのです。教員志望だった父は大学時代に野球部に入らず、母校(千葉東)の監督をして地方大会決勝で敗退。そこからいろんな野球を学びたいとプロの門をたたいた。そんな思いは最近、少し分かるようになってきたかなと思います。

-プロ野球選手にセカンドキャリアの希望についてアンケートすると常に高校野球の指導者がトップランク。お父さんの時代と違い、プロアマの壁も緩和されています。将来的には高校野球の指導者を希望しているのですか。

市原氏 そろそろ野球にかかわりたいなあと思い始めたのは事実ですが、高校野球の監督こそ簡単な仕事ではないと思っています。いろいろ関係者の話を聞き、野球だけではなく野球以外の教育面が重要だと認識していますので、僕の場合は高校生というよりももっと下の世代の子供たちに野球って楽しいよ、高校野球って楽しいよ、と伝えていければと考えています。

-プロ初出場は中日移籍2年目の95年9月26日の広島戦でした。

市原氏 球宴明けから監督代行になられていた島野(育夫氏=07年死去)さんがシーズン終盤になり、ご褒美で呼んでくれたのだと思います。2軍で一生懸命頑張っていたからと。2番ショートでスタメン起用されたのですが、先発はエースの今中さん。試合前に「きょうはショートに打たすからな」と言われたのですが、本当にショートゴロばかり飛んできてびっくりしました。そういう投球ができる方だったのです。その試合でゴロをさばく姿を見て、守備力は評価していただいたのだと思います。その後のキャンプも1軍に呼んでいただきました。

-現役生活は11年、出場83試合で幕を閉じました。プロの世界に飛び込んだ後悔はありませんか。

市原氏 チャンスをいただいた中で結果を出せなかったのは自分です。悔いがないと言えばうそになりますが、プロ野球を経験できて本当によかったと思っています。ダイエー、中日、近鉄と3球団でお世話になったのですが、指導していただいたコーチや先輩、スタッフの方々との出会いはかけがえのないものです。野球をやっていてよかったなあと思うのは「店に行くわ」と言ってくれた方は必ず来てくれます。そこは本当にありがたいなと思います。そしてボクがショートを守り、立浪さんがセカンド。その光景はボクの心の中で唯一の自慢です。中学のころにPL学園で春夏連覇、高校から中日に入り1年目から活躍された憧れの人でした。その方と二遊間を守れた。野球やっていてよかったと思います。

◆市原圭(いちはら・けい)1973年9月8日生まれ。大阪府出身。上宮高では1年夏からベンチ入り。同学年に元ロッテの薮田安彦氏、現在、阪神2軍コーチの中村豊氏がいた。同校から91年ドラフト8位でダイエー(現ソフトバンク)入団。94年中日、98年近鉄に移籍し02年引退。スポーツ用品メーカー、イベント会社勤務を経て14年に独立。現在は大阪市中央区で完全予約制の飲食店「鶏手羽とお鍋 One」を経営。