10・8登板、元中日山田喜久夫氏はわらび餅店経営

店の前で写真に収まる山田喜久夫氏

<ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ>

かつてプロの世界に挑戦した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」。今回は名古屋市東区でわらび餅店「喜来もち」を経営する元中日投手の山田喜久夫氏(48)です。伝説の「10・8」登板から四半世紀。山田氏の思いとは…。【聞き手・安藤宏樹】

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-平成から令和に代わった今年は山田さんにとっていろいろなことがありました。母校・東邦高がセンバツ大会優勝。平成元年にエースとして制覇して以来、30年ぶりの快挙でした。エースで主砲の石川選手のお父さんは山田さんと同級生で控えの捕手。そして長男・斐祐翔(ひゅうま)君は控えの捕手でベンチ入りできませんでした。父子2代が役割と立場を入れ替えたドラマは話題となりました。

山田氏 30年ぶりの不思議な巡り合わせでした。息子はアルプス席では応援団長のような役割をさせてもらっていました。またスコアラーとして守備のデータなど深夜まで相手チームを分析するなど、彼なりに居場所を見つけてチームの勝利に貢献していたようです。森田監督からそんなお話をうかがったときは本当にうれしく思いました。

-8月から9月にかけて長期入院もされたとか。

山田氏 腎臓移植の手術をしました。これまでも何度か体調を崩し、治療してきたのですが今回、妹が提供してくれることになり、しっかり治そうということで手術をすることにしたのです。

-ナゴヤドーム近くで経営されているわらび餅店はその間、どうされたのですか。。

山田氏 母校も夏は残念ながら愛知大会で敗退してしまいましたので、野球部を引退した長男も休みの日などは手伝ってくれました。従業員のみなさんの協力もあり、可能な範囲で営業させていただきました。

-そのわらび餅店の話を聞かせてください。99年に広島で現役を引退した後は横浜で打撃投手としてセカンドキャリアをスタート。その後、古巣の中日でも打撃投手をされていましたが、12年シーズンを最後に球界を離れることに。そのとき41歳でした。

山田氏 中日退団が決まった際、お世話になった方々に御礼に持っていった品がわらび餅でした。そのとき、いろんな方から「これおいしいね。覚えたらいいんじゃない」と言われたのがきっかけです。お店の大将がファンの方でもあったので、早速お願いして修業させていただきました。開店当時はお客さんが来てくれたのですが、やがて1人か2人という日も。おかげさまでみなさんの口コミもあって、最近は多くのお客さんにきていただけるようになりました。

-現役時代の話も聞かせてください。先日、伝説の「10・8」からちょうど25年が過ぎました。中日投手時代に登板した巨人との優勝をかけた最終戦は今も特別な日だと思います。

山田氏 松井君に本塁打を打たれた試合ですね。もちろん一番思い出に残っているゲームですし、あのシーンは今も鮮明に覚えています。

-94年セ・リーグ最終戦で勝った方が優勝という史上初の同率首位決戦。巨人が槙原、斎藤、桑田と先発3本柱を投入したのに対して、中日はエース今中が4回5失点で降板すると5回から2番手として登板したのが山田さんでした。

山田氏 3点負けている状況とはいえ、長嶋監督が言われたように「国民的行事」ですのでいつもの試合とは雰囲気も重みもまったく違いました。松井君を打ち取るにはシュートをいかにうまく使うかがポイントでしたので、初球、そのシュートで入ったのですがボール。2球目もインコースを攻めてファウルの後、3球目のインハイへのストレートが高く外れました。カウントが少し苦しくなったことで四球も脳裏によぎりました。もちろん本塁打は避けなければならない場面です。ただ、左打者を抑えることが仕事である自分にとって、登板していきなり先頭打者に四球は出すことは許されない。これは宿命です。そういう覚悟でいつもマウンドに上がっていましたので、コントロールに自信のあるカーブを選択したのです。それを見事に打たれました。

-松井選手に本塁打を浴び、4点差となって打者1人で降板。世間ではなぜリリーフは先発の柱だった山本昌や郭源治ではないのか、といった声も上がりました。

山田氏 いろんな意味で屈辱でした。ただ、左打者を封じることを求められて登板を命じられた以上、逃げるわけにはいかなった。それがたとえ強打者の松井君であっても、です。でも、この試合に投げたことで今もいろんな形で話を聞かれたり、伝えられたりします。自分にとってはプロ野球選手だった証しとも言える大切なゲームになりました。

-野球界を離れてからの職業選択やキャリア形成についてお考えはありますか。

山田氏 プロ野球選手にとってセカンドキャリアというのは永遠の課題だと思います。私の場合は現役10年。その後は横浜、中日と球団スタッフとして契約していただきましたが、その間に年金制度もなくなってしまいました。メジャーリーグほどの厚遇とは言いませんが、一定の基準を満たしたプレーヤーにはある程度の金額が支給される制度はあってもいいと思います。FA制度だけが充実してごく一部の選手だけが高額な報酬を得る形になっていることは残念だし、これからプロ野球を目指す人たちのためにも球界全体でよりよいシステム作りに取り組んでほしいと思います。

-ゼロの状態からスタートしたわらび餅店も今は軌道に乗りつつあるようです。

山田氏 引退してから飲食店を経営したりするケースは多いですが、和菓子の職人は自分が初めてじゃないかと思います。これから先、球界を離れる選手やスタッフの人からもし求められるのであれば、店で修業して、経営にチャレンジしてもらえればと。

-少年野球の指導も順調のようですね。今後の目標を聞かせてください。

山田氏 今の子供たちは厳しいだけでは離れてしまいます。エラーしてもドンマイ、ドンマイで野球を楽しませながら教えているという状況です。幼稚園児から小学生まで70人ほどの子供たちを教えているのですが、これからは高校野球にもかかわっていければと…。体をしっかり治して、まずは学生野球の指導者資格を回復したいと考えています。

◆山田喜久夫(やまだ・きくお)1971年7月17日生まれ。愛知県出身。東邦高ではエースとして88年春準優勝、翌89年選抜大会制覇。同年ドラフト5位で中日入団。主に中継ぎとして活躍。99年、広島に移籍し同年限りで引退。プロ通算222試合に登板し6勝8敗、防御率3・76。左投げ左打ち。引退後は横浜、中日で打撃投手などを経て、現在は「喜来もち」(名古屋市東区)店主。