田中邦衛の名前が 横浜・杉田バッティングセンター

7レーンに9台のマシンが並ぶ。中央の丸い板がホームランボード

<週中ベースボール>

<バッセン巡り>

野球少年の胸が高鳴る場所の1つにバッティングセンターがあります。今回から随時、各地のバッティングセンターを巡ります。ペンとバットを握るのは、元球児で現役学童野球コーチの52歳。かつて芸能界のレジェンドが通った横浜市磯子区の「杉田バッティングセンター」を訪ねました。

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岡山県の田舎町に住んでいた子どものころ、父親にバッティングセンターに連れて行ってもらうのが、うれしくて仕方なかった。中学までは打撃マシンとは無縁の野球部だったから、次から次へと投球に向かえるのは夢の世界。40年以上前の記憶では、確か1ゲーム200円。何球だったかは覚えていないが…。

横浜市磯子区の「杉田バッティングセンター」はJR洋光台駅からバスで約7分。市道環状3号と笹下釜利谷道路の交差点の角に立つ。オープンは「42年ぐらい前だったかな」とは、オーナーの文元浩さん(62)。両親が経営したスカーフの生地などを扱う捺染(なっせん)工場をたたむ際、新たな事業としてバッティングセンターを選んだ。跡を継いだ文元さんだが、大学生だった当時は時々手伝う程度だった。

現在、9台のアーム式マシンが稼働する。左打席を増やすため、打席を挟むようにホームベースを2つ置き、右でも左でも打てる変則レーンもある。7レーンなのに、9台なのはそんな工夫からだった。いくつかのマシンは創業時から使っている。何度もバネを替え、調整を重ね、現役を続けている。

料金も球数も創業当時のまま200円、25球だ。1988年(昭63)に初めて消費税3%が導入され、今秋の10%で3度目の増税となった。増税のたびに球数を減らすことが頭をよぎるが、見送り続けている。「1000円使ってくれるお客さんが、球数を減らしたからって1200円は使わないんですよ。だったら、気持ちよく25球打ってもらいたい」と、頑張っている。

巨人のV9が終わったものの、子どもたちの遊びは野球が中心だった創業当時の売り上げから3分の1になったが、亡き母親の「近所のお子さんのために」の願いを守り続けている。

かつては子ども同士の来場が多かった。最近は、親に連れられ練習する子どもが多いという。文元さんは「野球をやろうにもグラウンドを借りたり、大人抜きでできない時代になった。子どもが変わったというより、環境の変化を感じます」と話す。

壁には、打席から約25メートルのところに掲げられた本塁打ボードに3回以上当てた人の名札が飾られる。随時、入れ替えてきたが、ずっと飾られている札がある。俳優田中邦衛(86)のものだ。田中が通ったのも創業当時だった。ランニングの途中に立ち寄ったようで、来店すると5ゲームほど打ち込み、再び走って帰っていった。文元さんはその様子を、従業員から伝え聞いた。ドラマ「北の国から」放送開始の少し前だった。「僕にとっては映画『若大将シリーズ』の青大将のイメージが強くてね。磯子に住んでいるとは聞いてましたけど、結構気さくにされていたそうです」。ほかにEXILEのHIRO(50)も少年時代に通っていたことを、テレビ番組で打ち明けている。

「北の国から」で田中が演じた黒板五郎のような渋くて温かい父親に、私はなれなかったけど、本塁打3本打てば、肩を並べることはできる。

やるなら今しかない。

4年生の次男に借りた560グラムの少年用バットを手にした。まず球速100キロから。本塁打ボードは左中間上空。マシンは古いが、低めに制球された投球が多く、なかなか打ちやすい。思い切って中央の120キロへ。まったく歯が立たず、隣の130キロは打たないことにした。

予定は5ゲーム。でも当たらない。1000円札を再び両替して、80キロをあえて振り遅れ気味に右中間に打ったら何発かボード近くに。いけるかも。でも、6ゲーム目に腰が悲鳴を上げ、7ゲームで諦めた。1400円175球。ボールの消耗具合やバネの加減で、制球がばらつく時もあるけれど、乱れに気付くとすぐさま調整に走ってくれる。汗がしたたれば、おしぼりのサービスもある。何より打ち終えて、出口に向かうと文元さんの「ありがとうございます」の声が響く。

古いけど、思いやりとこだわりにあふれる、手作り感覚。「北の国から」にも似た…とは、こじつけが過ぎるだろうか。【久我悟】

◆杉田(すぎた)バッティングセンター 1ゲーム200円。ホームランボードに直撃するとホームラン券が1枚贈られる。1枚で2ゲームサービス、3枚で11ゲームのチケット。住所は横浜市磯子区上中里町299の2。【電話】045・771・6178。営業時間平日午前11時から午後10時、土日祝日午前9時から。休日の前日は午後10時30分閉店。年中無休。

◆久我悟(くが・さとる)桑田、清原、大魔神佐々木、広島佐々岡監督など多彩なプロ野球選手を輩出した1967年(昭42)生まれ。中、高、大学と野球部主将だったが、最終的な定位置は三塁ランナーコーチ。90年日刊スポーツ入社。芸能、野球記者などを経て、現在は家族向け当ページ「ニッカンジュニア」を担当。