野茂の女房は見た 世界に通じる異次元思考/パ伝説

近鉄野茂英雄(左)と談笑する光山英和(1991年8月27日撮影)

<復刻パ・リーグ伝説>

1990年、スーパースターが球界に生まれた。ドラフト史上最多8球団の競合の末、近鉄入りした野茂英雄氏(51=パドレスアドバイザー)。プロ1年目の90年に投手4冠を総なめし、沢村賞、リーグMVPに輝いた。

その活躍を捕手として支えたのが、楽天の1軍バッテリー兼守備戦略コーチを務める光山英和氏(54)だ。女房役が見た「世界のドクターK」たる理由は、球速や代名詞のフォークではなく、唯一無二の感性にあった。【取材・構成=堀まどか】

仰木彬の頬は染まり、勝利を振り返る声は震えていた。「試合のことはどうでもええ。今の西武をやっつけるのは難しいけど、それをあいつはやりよった」。90年6月3日の西武戦(西武)。野茂の登板試合で2度目の先発マスクをかぶった光山とのバッテリーで、延長11回を3失点完投でシーズン4勝目。チームの連敗を6で止めた。最強バッテリーへの道を歩き始めた試合になった。

当時の近鉄1軍には山下和彦、古久保健二、光山の3捕手がいた。主戦は最年長の山下。4月10日西武とのデビュー戦(藤井寺)は山下が先発で受け、同29日オリックス戦(西宮)で日本タイ記録(当時)となる17奪三振2失点完投のプロ1勝へ野茂を導いた。ブーマー、門田博光らを翻弄(ほんろう)する投球を、光山はベンチから見つめた。

光山 みんなベースの手前で空振りしてる。野茂のいいときは、振ってから「あ、フォークやった」ってなるから。打撃コーチからは「あのフォークは捨てろ」って言われるけど、捨てられない。まっすぐと思って振ってしまうんです。

史上初の契約金1億2000万円右腕の真骨頂を見せつけたプロ初勝利。「絶対に野茂を取る」。正捕手奪取へ、光山は勝負をかける決意を固めた。

初めて先発バッテリーを組んだ5月8日ダイエー戦(北九州)は、味方の守乱で3失点完投負け。その後3試合、野茂は山下と組んだが、その3試合目の5月27日西武戦(藤井寺)で8回途中6失点KO。6月3日、野茂-光山のバッテリーは勝利を挙げた。

光山 理由は聞いたことはないけれど、先発投手との勝ち負けで組ませる傾向が監督にはありました。それに盗塁を刺せたので。フォークがワンバウンドした時に走られることが多かったので。

野茂といえば光山の図式が生まれていた。ただ、事は簡単には運ばなかった。

光山 周りは「あのまっすぐとフォークがあったら打たれへんから、ええな」と言うんですけど、フォークがボールやったらまっすぐしかないやん。そしたらどうするねん? と。

さらに光山を弱らせたのは、フォークのサインに首を振り続ける姿だった。

光山 強打者にはまっすぐで勝負。もともとそれがあって、(西武)清原には特にその気持ちが強かった。でも結局、よく打たれた。首振ったらまっすぐって相手も分かってるやないですか。球場中わかってた。

ところが、光山の理解を超える人間がもう1人いた。ベンチに戻ると、仰木が仁王立ちしていた。「何をまっすぐばっかり投げさせとる!」と怒鳴られた。手も出た。足も出た。

光山 この人、見てないんか? うそやろ~って。

だがどれだけ仰木に火を噴かれようと、光山は何も言わなかった。

光山 監督は、野茂には怒らんと決めてたところがあって、たぶん1度しか怒ってない。1勝もできなかったときに「ええかげんにせえ」って言ったっていう話は聞いてますけど。

仰木の怒声が響くベンチ内で、当の野茂は何事もなかったように座っていた。

光山 いまだに野茂は、その話になると「知りませんでした」。揚げ句に「光山さん、清原さんのファンでしたから」って言いだした。家に清原にホームラン打たれた写真があって、それを見たときに「清原さんがホームベース踏んだときにガッツポーズしてたでしょ?」って。そのネタは今もずっと続いてます。

決死の思いで出したサインに首を振られ、抑えきれずに打ち込まれ、監督には怒られた。その話は、ネタになった。それでも2人の間に溝は生まれなかった。言い訳しない光山を、野茂は信頼。自宅を行き来する仲になった。

光山 めちゃめちゃ、いいヤツなんで。似顔絵描いて送ってきたり、オフに陶器作りに行ったら、ぼくの陶器作ってくれたり。

野茂のよさを、個性派集団もわかっていた。1勝もしないうちから1億円超の契約金を手にした新人を、最初はシビアな目で見た。だが結果と個性で、野茂は周りの見る目を変えた。

光山 野茂の登板前日になると「明日、野茂やから早く帰ろう」みたいな話になりました。絶対に勝たさなあかん。野茂やからと。

近鉄5年間で78勝を挙げ、メジャー7球団で123勝。日米で野茂は成功者となった。トルネード投法、宝刀フォーク、タフネスと特性はいくつもある。だが光山が見た野茂ならではの力は、そこではなかった。

光山 考え方の次元が違う。たとえば投球フォームのクセでも、球種はばれていた。でも、野茂はそんなこと気にしない。メジャーに行ったときも、経験した選手はボールが違うとかマウンドが硬いとか言う。「どうなん?」って聞いたら、「気、つけへんかった」って。「だって光山さん、メジャーですよ。メジャーのマウンドでめっちゃうれしいのに、そんなん気ぃつけへんて」。

こんなことを言う投手を、ほかに知らない。球速、変化球のキレなら野茂以上と思える投手はいた。ただ、野茂と似た感性に光山は出会ったことはない。

光山 メジャーでも成功したのは、動じない、ぶれない。そこだと思います。

この個性こそ、世界と渡り合った野茂の力だった。(敬称略)

 

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○…引退後の光山さんは、多くのチームから指導を請われる立場になった。NPBだけで西武、DeNA、楽天コーチを歴任。指導者になった今「どこかで仰木さんを見ている。自分の中で。指導者像として。仰木さんやったらどうすんのかなと考える」と明かした。亡き指揮官が、今は道しるべとなってよみがえる。大事な経験を積んできた証しだ。

野茂氏は通算7シーズンすべて、光山さんのキャンプ地に足を運んだ。「2人で飯食って、飲んで、歌って。野茂はカラオケ、すごく好きです。すごくうまい。ミスチル、全曲歌えるくらい」と歌唱力を絶賛。逆に自身は「ぼくは下手なんで。好きな沖縄ソングならなんとか」としぶしぶ声を張り上げる。光山さんにとって野茂氏は「いい投手を見ると、野茂みたいになるかなあ」という基準だ。一方の野茂氏にとって光山さんは、いつまでも、飾らない顔でつきあえる相手なのだろう。

 

◆光山英和(みつやま・ひでかず)1965年(昭40)11月20日、大阪府生まれ。上宮(大阪)から83年ドラフト4位で近鉄入団。97年の開幕直前に中日にトレード移籍し、その後巨人、ロッテ、メキシカンリーグ、横浜を経て02年にコーチ要請を受けた韓国プロ野球のロッテで力を評価され、選手として入団。03年のシーズンを最後に現役引退。西武、DeNAの1軍コーチを経て、18年オフに楽天1軍バッテリー兼守備作戦コーチに就任。今季は1軍バッテリー兼守備戦略コーチを務める。