低評価覆し最強助っ人へ、ローズ成功の秘訣/パ伝説

右越え本塁打を放つ近鉄タフィ・ローズ(1996年4月4日撮影)

<復刻パ・リーグ伝説>

最強助っ人は、いかに生まれたか-。近鉄、巨人、オリックスで活躍したタフィー・ローズ氏(51)は、外国人選手でNPB最多となる464本のアーチを描いた。来日当初の低評価を覆し、豪快な打撃で本塁打を量産。陰で支えたオリックス藤田義隆チーフ通訳(62)が日本球界成功の秘訣(ひけつ)を証言した。【取材・構成=真柴健】

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最強助っ人の面影は全くなかったという。96年の来日当初。近鉄に加入したローズはスリムな体形で、俊足タイプのイメージだったという。球団は同じ年に補強したクリス・ドネルス(C・D)を期待していた。当時の通訳藤田は記憶をたどる。

藤田 一緒に来日したC・Dの方が、注目を浴びていました。(ローズは)かなり線の細い選手で、物静かでしたね。思った以上にスラッとした印象でした。だから最初は、ローズの評価は低かった。

サイパンで行われた春季キャンプでは、他球団関係者が「あの外国人はダメだろう」と酷評したほど。そんな状況で、ローズはドネルスにライバル心を燃やし、練習に励んだ。練習量の多い日本人を素直に見習った。マメはつぶれ、むけてボロボロになった手のひらを藤田は実際に見ている。努力に加え、もう1つの長所があった。それが順応性だった。日本の生活に早く溶け込もうと、通訳を伴わずに町に出て、友人を作った。

藤田 日本に順応するのが早かったですね。やっぱり生活面。インタビューやミーティングでは、通訳が必要なところは使ってくれるけど、それ以外は自分で友達を見つけて勉強して、生活していましたね。通訳がいないと何もできないという状況はなかったです。

来日1年目は、130試合に出場し、打率2割9分3厘、27本塁打、97打点のチーム3冠。ライバルだったドネルスの成績を上回った。結果を残したことで、「助っ人」としての自らの立場を強く認識。「ホームランを打たないと意味がない」と話していたという。俊足タイプから、長距離砲への完全移行に取り組んだ。上達の一途をたどる日本語では、こんなエピソードがあった。インタビューの際に、藤田が訳す前に話し出すことがあった。「あ、ごめん!」。そうわびる姿が何度も見られた。

藤田 自分の耳で日本語が聞き取れるので、自然に話してしまうんです。でも、間違いや語弊があるとダメなので、きちんと通訳を通すのがポリシーでした。

会話だけに飽き足らず、漢字への興味も持った。

藤田 「ローズって漢字でどう書こうか?」と聞かれたことがあって。何個かリストアップして「狼主」になった。気に入って使ってくれた。肉も食べるし、中華も食べる。お箸もきれいに使えた。

2年目以降も好成績を収め、01年に最高の1年を迎えた。王貞治の日本記録(当時)に並ぶ55本塁打。記録更新を狙ったが、勝負を避けられる場面が目立った。しかしローズは理解していたという。

藤田 勝負を避けられることもあり、なかなか55号は抜けなかった。でも、彼はそこに対する数字をリスペクトしていました。

いてまえ打線の中心で存在感を示し、リーグ制覇に貢献。MVPも受賞した。遠征先では試合後に打撃論を交わすことも多く、研究熱心な姿は変わらなかった。退場回数はNPB最多の14度を記録するなど、血気盛んなプレースタイルでもファンを沸かせた。藤田は全盛期の思い出を懐かしそうに話す。

藤田 中村紀洋くんとは、よく食事に行きましたね。礒部くん、川口くんらを誘ったり。「鉄板焼、いこか~!」という感じで。ローズは日本語がわかるので、僕が行かなくても、みんなで食事に行けるとは思うんですけど、誘ってくれましたね。チーム以外でも生活していく上で、友達作りが上手でしたね。社交的な性格で、輪を広げるのがうまかった。熱い男でしたけど、レベルアップに必要なことは一生懸命に取り組む冷静な男でした。

巨人、米球界復帰を経て、06年に1度は現役引退。1年間プレーしなかったが、07年にオリックスに電撃復帰。春季キャンプにはテスト生で参加したが、おなかがぽっこりと出ていた。そんな再スタートだったが、打率2割9分1厘、42本塁打、96打点と華々しい成績でカムバックした。

藤田 1年のブランクがあっての、あの成績。化け物ですよね、本当に。勝負強いし、何も変わりなかった。ひょっとしたら、もう無理なのかな、とは思っていたんですけど。春季キャンプで痩せる数字を設定して、そのまま達成してシーズンにすんなり入った。もし、あの1年間のブランクがなかったら、もっとすごい成績を残していたと思いますよ。

ローズはNPBで通算13年間プレー。通算464本塁打は外国人で最多だ。低評価だった助っ人は、野球殿堂入り候補にノミネートされるまでになった。藤田はローズにかけられた言葉を今もうれしそうに振り返る。

藤田 「信頼している」と。何回も真っすぐにそう言ってもらえた。あまり外国人選手が口にする言葉ではないので、うれしかったですよね。一番実績のある選手に言われたので、本当にグッときました。

「仲間」の輪をすぐに広げられた才能が、日本で大きな花を咲かせた。(敬称略)

◆タフィー・ローズ 1968年8月21日生まれ、米オハイオ州出身。ウエスタンヒルズ高から86年ドラフト3巡目でアストロズと契約。90年メジャーデビューし、カブス、レッドソックスでもプレー。メジャー通算225試合、132安打、13本塁打、44打点、打率2割2分4厘。96年から近鉄でプレー。日本球界通算464本塁打は外国人最多、1269打点はラミレスに次いで2位。15年にはBC・富山でもプレーした。現役時代は182センチ、100キロ。左投げ左打ち。

◆藤田義隆(ふじた・よしたか)1957年(昭32)8月12日生まれ、神戸市出身。市芦屋-聖ミカエル国際学校英語科卒業。野球は未経験ながら、知人の紹介で通訳として83年に近鉄入団。現役の球団通訳でNPB最長の勤続年数で37年目を迎える。10年からはチーフ通訳を務めている。

○…藤田チーフ通訳は仕事の枠を越えて、ローズの「相棒」となっていた。「ずっと一緒でしたからね。ある程度は何を考えてるのか理解できました」。常にローズの真横で感動や興奮、悔しさを分かち合ってきた。

そんな藤田通訳だからこその願いがある。「野球殿堂入りは…。難しいですかね? なんとかローズも選んであげてほしい。その実績は彼にはあると思います」。歴代最強助っ人に、日本から吉報が届くことを期待した。「また何かしらの形で、日本で野球に携わってくれたら。私はもう、63歳なので、通訳としての仕事は難しいかもしれませんが、何か力になれるのであれば、頑張らせてもらいたい」。最強助っ人とのコンビ再結成を心待ちにした。