山口高志の剛腕導いた土井正博と野村克也/パ伝説

現役時代の山口高志さん(1975年撮影)

<復刻パ・リーグ伝説>

伝説の剛腕として大きな足跡を残したのが、元阪急の山口高志さん(69)だ。1年目から12勝1セーブを挙げ、日本一に貢献。日本シリーズMVPにも輝いた。腰痛が発端で8年50勝44セーブの太く短いプロ人生となったが、今なお語り継がれる存在だ。

75年4月22日の南海(現ソフトバンク)戦でプロ初勝利。「土井さんが扉を開き、ノムさんがお尻を押してくれた」と振り返る土井正博氏(76)、野村克也氏(84)の言葉の力で剛腕は覚醒した。【取材・構成=堀まどか】

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2時間35分の試合を終えたルーキーの手は震え、目は充血していた。「どんな形でもいい。早く1勝がほしい。それだけでした。きょう3回目も打たれたらどうしようと、そんな心配ばかりでした」。紡ぐ言葉に、責任を1つ果たした実感がこもった。75年4月22日。山口高志は登板3試合目で勝利投手になった。

「村山実の再来」と注目された剛腕だった。

山口 高校のときのバッテリーが、神戸の山の方で酪農をしている。冬に会うと「お前のおかげでこの指、全然血が通えへんわ。冬になると真っ白になって」と手を見せられます。

スピードガンのなかった時代。数字で球速を測れなくても、それ以上の衝撃が球威を物語った。関大4年時に春秋全国王者にチームを導くなどアマ時代の実績、代名詞の剛球こそ、阪神のエースに君臨した関大の先輩、村山の再来と言われるゆえんだった。そんな剛腕も出だしでつまずいた。

山口 キャンプで、全然エンジンがかからんかったんですよ。

黄金ルーキーはプロの洗礼のまっただ中にいた。

山口 当時の阪急独特の、よく遊んでよく練習するペースにどっぷり浸かってましたからね。誘われると断る勇気がない。先輩に失礼やと。

ガソリンタンクと呼ばれた350勝右腕・米田哲也とは、オープン戦中にこんなやりとりがあった。

「明日、投げるんか?」「先発です」「じゃあ、飲みに行こう」

山口 オープン戦やから、その前に何杯飲んだら力が落ちるか試したらええやんて言われて。そんな考え方もあるんかなと思って。

タフな先輩たちに必死でついていくうち、開幕前の準備期間は過ぎた。4月11日日本ハム戦(後楽園)の救援でデビューを飾るも、逆転打を浴びて敗戦投手。同19日太平洋(現西武)戦も0-2の7回2死二塁で登板し、4番の土井に2本の痛打を許した。

山口 オープン戦のころから、変化球も覚えないかんなというイメージで練習はしとったんですけどね。打者の練習見てたり対戦したりしたら、まっすぐ1本じゃしんどいんじゃないかなという思いも持ちましたしね。だからといって、ない球種を放ったんとは違うんですよ。練習している球種を放ったけど、それがダメやからまっすぐを苦し紛れに投げる。それを打たれるって感じやったから。

“天の声”が届いたのは、そんなときだった。

山口 福さんが「タカシ、土井さんが『お前のまっすぐが一番打ちにくいわ』と言われてたで」と。それを聞いて、よし、まっすぐで行けるところまで押してみようか。これでプロに入れてくれたんやからと。

福本豊が、19日の対戦で山口のカーブをダメ押し弾にした相手主砲の山口評を伝えてくれた。

迎えた4月22日の南海戦はプロ初先発。山口は直球で押しに押した。全142球中、9割が直球。3安打9奪三振1失点完投で、待望のプロ1勝を手にした。

山口 土井さんの言葉はぼくの目をさましてくれた。ピシッと一言。不安はなかったけれど、打者に対してどうやって行こうかとかいろいろ考えすぎた。まだそんな技術もないのに。そこで「まっすぐが一番打ちにくいぞ」と教えてくれた言葉でした。

さらに翌日の新聞紙面である言葉が山口の心をとらえた。南海の捕手兼任監督、野村の談話だった。

山口 「球数を放って行った方が、逆に力がついてくるな」ってニュアンスでした。終盤に行けば行くほど球威が出てくると。まっすぐに手応えを感じて、これで行きたいなと思ったのはノムさんの言葉ですね。

プロに認められた力を、山口は再認識する。南海戦は運命の試合になった。野村には球宴でも印象深い言葉をかけられる。

山口 試合前のミーティングのときに、ノムさんに「タカシは入らんでええ」て言われたんですよ。「お前はまっすぐだけ放っときゃええ」と。その言葉も頭に残っています。

名捕手との会話は、忘れられないものとなる。

山口 扉を開いてくれたのは土井さん。お尻を押してくれたのは、ノムさんの一言。「投げれば投げるほど力が出る」と。

山口は広島との日本シリーズでも好投を続けた。秋の薄暮で球が見づらい西宮の特性が、剛球を魔球にした。投手の信念がこもった球が赤ヘル打線を抑え込んだ。通算1勝2セーブ。球団創設40年目で、阪急は初の日本一を手にした。翌年の頂上決戦で初めて巨人を下し、77年も巨人を倒して3年連続日本一。山口の働きが球団の偉業を支えた。

78年秋のチームのゴルフコンペで、山口はティーグラウンドに降りようとしてカラ足を踏み、腰を痛めた。腰のキレが鈍り、球威が落ちた。プロ人生が8年で終わるきっかけとなった。ただ、ケガだけではない。

山口 故障さえ癒えたら絶対にこのへんまでは戻るやろという感覚で、もう1回まっすぐで戻ろうという気持ちでやってたからあれだけ短命に終わってしまったのかな。

直球こそ、人生をかけて悔いないものだった。「ただ」と山口は続ける。

山口 ああいう形で終わってしまったから、今もこうやって野球に携わることができているんかな、と思ってますよ。

プロで指導者、スカウトを歴任。16年から母校・関大に戻り、昨秋の明治神宮で自身以来の決勝を見守った。山口の言葉で、山口を継ぐ者が生まれていく。今なお山口は、生ける伝説であり続ける。(敬称略)

◆山口高志(やまぐち・たかし)1950年(昭25)5月15日、兵庫県神戸市生まれ。市神港で甲子園に出場し、関大では4年春の全日本大学選手権、秋の明治神宮野球大会で優勝。松下電器(現パナソニック)から74年ドラフト1位で阪急入り。75年は12勝13敗で新人王、広島との日本シリーズでもMVPを獲得した。78年に最優秀救援投手賞。82年に引退。通算50勝43敗44セーブ。阪急、オリックス、阪神の1、2軍投手コーチやオリックス、阪神のスカウトを歴任。16年から関大を指導している。