DeNA山崎康晃 未来ある子どもたちへメッセージ

プレミア12のオーストラリア戦で9回、ストライクをアピールする日本の抑え山崎康晃(19年11月11日撮影)

<週中ベースボール>

DeNA山崎康晃投手(27)が、未来ある子どもたちへメッセージを送った。少子化、野球離れが叫ばれる昨今。少年野球の現場で子どもたちを取り巻く問題も少なくはない。侍ジャパンの守護神は自らの原点を振り返り、「楽しい野球」の大切さを唱えた。

コーチによる体罰、行き過ぎた指導、球数制限、親同士のトラブル…。少年野球で起こる問題は年々、多くなっている。野球に限らず、近年はスポーツに打ち込む子どもたちを取り巻く環境も大きく変化している。昔だったら考えられないような事件が報道されるようになるなど、時代は変わりつつある。山崎はそうした現状を見つめながら、自身の原点を思い返した。

山崎 僕は何も言える立場ではないですが…、やっぱり子どもたちファーストですよね。子どもたちは、野球をやりたいからグラウンドに立っているわけだし。子どもたちの思いを最優先に考えることが大事だなって思います。子どもたちありき。そう、子どもたちファーストですね。

河川敷の土手で、白球を追いかける少年だった。それが、野球人生のスタートだった。

山崎 僕、土手野球で始まりました。土手野球、いい感じだったんですよ。雰囲気というか、何かいいんですよ。金八先生のドラマの舞台のような場所で。本当に子供の頃は、そこに行くことが楽しみで、楽しみで。土日に野球があった中で、金曜日ぐらいからワクワクしている生活でしたね。

好きで始めた野球。当時の指導も、勝つ野球ではなく、楽しむ野球だったという。

山崎 本当に純粋に野球が楽しいなって思える環境でしたね。指導というよりは、野球を楽しみましょう的な感じで。午前9時から始めて、午後1時に終わる日もあれば、試合があって夕方までの日もあった。でも、楽しかったから、あっという間に時間は過ぎていましたね。自分にとっていいプロセスだったと思う。

土手野球のコミュニティーは、人とのつながりの場でもあった。

山崎 違う小学校の人もたくさんいて。そういう人たちと交流することって、なかなかないことじゃないですか。その時しか味わえないこと。野球でつながっていたというか、野球が1つのコミュニティーとなっていた。今でも連絡を取る小学校時代の人もいるし、中学校の時にあった選抜のメンバーも今でも交流はありますから。

勝利、勝つということを意識するようになったのは、帝京高へ進学した後だった。その後に進んだ亜大は全国的にも「厳しい指導」と言われる環境。ただ、それも少年の頃に味わった「楽しさ」の下地があるから頑張れたという。

山崎 厳しかったですね。高校時代、僕はずっと控え投手で、背番号18、15、11もありました。やっぱりエースになりたい。背番号1をもらいたい。つらかった。けれど、頑張れた。目標がありましたし。野球を始めた小学2年生の頃から、プロ野球選手になりたいと思っていましたから。しんどかったけど、やっぱり野球が好きなので、頑張れた。最後、エースの背番号1をもらえて、母は泣いていました。本当にあの時はうれしかったですね。

楽しむ原点があったから、どんな厳しい練習にも必死に食らいついた。野球は楽しいと分かっているから、さらにレベルアップしたいと思った。河川敷の土手で泥だらけになっていた少年。それが今や「ハマの小さな大魔神」と言われるまでに成長し、侍ジャパンでも守護神を務める日本を代表するクローザーへと上り詰めた。

山崎 楽しむことも大事だと思いますし、同時に夢を持つこともすごく大切なことだなって感じます。僕はずっとプロ野球選手になりたいと思って、今まで頑張ってきた。帝京高校3年の時にドラフトで指名漏れしても、そこで諦めることはなかった。誰にでもチャンスがあると思っていた。だから亜大の4年間も頑張れたと思います。あの時はひたすら、どうしたらプロ野球選手になれるのか、そう考えながら、練習する日々でしたね。野球以外のことなんか、全く考えていなかったかもしれない。思い続けたからこそ、今があるのかなと思います。

14年ドラフト1位でDeNAに入団すると、15年には新人王に輝いた。昨季まで5年連続で25セーブ以上を記録。18年から2年連続でセーブ王に君臨する、絶対的な存在だ。直球とツーシームという少ない球種ながら、守護神のポジションで力を発揮する。「野球を楽しむこと、夢を持つこと、そしてその夢を諦めないこと」。山崎のスタイルは、野球を始めた小学2年の時から変わっていない。【栗田尚樹】

◆山崎康晃(やまさき・やすあき)1992年(平4)10月2日、東京・荒川区生まれ。帝京2年夏、3年春に甲子園出場。亜大では4年春にMVPを獲得。14年ドラフト1位でDeNA入団。1年目からクローザーに定着し、新人王を受賞。4年目の18年には日本人最速で通算100セーブに到達。18、19年最多セーブ。15、19年プレミア12日本代表。179センチ、88キロ。右投げ右打ち。