ひらめきから生まれた捕手の鎧 ハタケヤマ開発秘話

「ビブソーブ」と呼ばれる回転規制シートが装着された捕手用プロテクター(撮影・桑原幹久)

<深掘り。>

#開幕を待つファンへ 捕手の全身を覆う「防具」の最前線を追った。16年からコリジョンルールが採用され、本塁でのクロスプレー時の衝突が禁止に。体に触れる面積が最も広い野球道具は、劇的に進歩している。大阪の「ハタケヤマ」に独創性あふれる逸品があると聞き、工場へ向かった。「下町ロケット」を地でいく工程と、開発技術をしのぎ合う企業間競争をルポする。(本文敬称略)【久保賢吾、桑原幹久】

※この取材は、3月に関係者の方々との距離などに配慮して行いました。

大阪市の外れ、地下鉄平野駅から5分歩くと、閑静な住宅街に真っ白な外壁の「ハタケヤマ」の工場が見える。入り口の扉を開けると「よく来たね~」と明るい声。パーカ姿の畠山佳久社長(66)が出迎えてくれた。

吹き抜けの2階建て。ガンガンガン! と何やらたたく音が聞こえた。奥をのぞくと、3人の職人が未完成のグラブ、ミットに囲まれ、手作業でひもを通していた。壁や棚にはプロ野球選手のグラブ、ミット、防具などが並んでいる。従業員は10人ほど。町工場から魂が込められた“作品”が生み出されてきた。

濃厚な空気に圧倒され、息をのんだ。テーブルにつき、コーヒーをいただきながら本題に入った。独創的な防具を作り出したという話を聞いていた。「あぁ、あれね。相川亮二が作ってくれ、ということで作りましたわ」。パンフレットの25ページを開くと「ハタケヤマのオリジナル回転規制シート『ビブソーブ』」との説明があった。

実物を見せてもらった。ん? 胸部のクッション材を覆う合皮製のシートの間に、わずかな隙間が空いている。畠山は「相川が『カーテンにボールを投げるとひらりと落ちる』と言ってね。『カーテン…?』と最初は思ったわ」と笑った。

10年ほど前、当時ヤクルト所属の相川(現巨人1軍バッテリーコーチ)とグラウンドで雑談中に発想を得た。走者の進塁を防ぐため、ワンバウンド投球を柔らかく前にはじきたい。布に包まれポトリ、と落ちるように-。「理論的には分かってたんでね」とすぐに取りかかった。

空洞の幅が大きい方が止まりやすい。ただ、幅が大きすぎると、何かにひっかかる恐れもある。「そんなにたくさん試作品は作ってない。だいたい1発。テストしてまあまあいけるなと思ってね」。経験則から約3センチの空洞が生まれた。

次は「足」だ。「これはミツが考えたんや。『衝突がなくなったから、もっと軽くできるんちゃうかな?』ってね」。レガーズは従来、樹脂やプラスチック製。同社の「ShinLight」と呼ばれる製品は、すねの部分が合皮でできていた。片足で約840グラムあった従来品より約30グラムの軽量化に成功した。

衝撃に対する吸収性は劣る。ただ、走者との衝突がなくなったことで、吸収性に重きを置かず、カバリング時などの俊敏な動きの速さに比重を置くことで「軽さ」への追求が生まれた。

「ミツ」とは、近鉄などで活躍し、現在は楽天でバッテリー兼守備戦略コーチを務める光山英和のこと。2年ほど前、現役時代から同社製品を愛用している旧友から提案を受け、半年足らずで製品化した。商品番号に含まれる「MIT44」は、光山の名前と現役時代の背番号からとられている。

「コーヒー冷めますよ」。気づけば1時間が過ぎていた。ロマンスグレーが似合う畠山と「ハタケヤマ」の生い立ちが気になった「僕はね、料理人になろうと思ってたんですよ。食べるの好きやからね」と言い、また笑った。

野球道具のDNAは備えていた。実家は「虎印」「タイガー」ブランドを持つ美津和タイガーの下請けを営み、グラブなどの革製品を製造していた。幼少期には職人の父に連れられ、大阪球場、藤井寺球場、甲子園へと足を運んだ。「野球は高校の時にちょこっとやったけど、肩と肘を痛めてね。その後ソフトボールで全国3位になったけど、熱心な野球ファンではなかったね」。

初芝高(現初芝立命館)卒業後、父に打ち明けた。「『料理人になるわ』と言ったら反対された。『忙しいからこっちを手伝え!』とね。今となってはおやじに感謝してるよ。作る方じゃ、うまい物も食べにいけへんからね」。父は、手取り足取り教えてくれなかった。目で学び、盗んだ。業後はひとり工場に残り、何度も練習品を作った。

85年の1月。「自分の思い通りの物を作りたい」と別会社「ハタケヤマスポーツ」を立ち上げた。美津和タイガーと取引のない10店舗ほどから、根を生やした。しかし、同年2月に美津和タイガーが倒産。原料の仕入れ先への支払いなどが立て込み、いきなり2000万円の負債を抱えた。「楽しいとかしんどいとかやない。とにかく生活するために、必死に売るしかなかったな」。

物には自信があった。和牛の革を用い、心を込めて1つ1つ手作りした。大阪から越境した高校生を通じ、各地へ口コミが広がっていった。プロへの道が開けたのは85年のシーズン開幕前だった。

当時、阪神が2軍の拠点としていた浜田球場周辺を営業していると、春季キャンプ先から戻ったチームを乗せたバスが目に入った。「昔は美津和タイガーの人とよう行ってたんでね。マネジャーに話したら『道具がないと困るので』と通行証をくれたんや」。2軍選手、裏方さんを中心に対応すると話が広がり、美津和タイガーの製品を使用していた阪神川藤、真弓、掛布らが「倒産したから買ったるわ」と手を差し伸べてくれた。「長崎(慶一)さん、北村(照文)、ゲイルまで使ってくれたね」と縁に感謝し、懐かしんだ。

    ◇   ◇

あっという間に2時間が過ぎた。「もう66や。ぼちぼち引退やね」と笑う畠山に、競争を戦い抜く原動力を聞いた。「僕の場合は『ひらめき』やね。ひらめかないとダメ。相川のもミツのも『これはいける!』と思ったからね。新製品? 考えてるけど、それは言えへんな。まあ、楽しみにしといてください」。無限の発想力とクラフトマンシップで、大手に太刀打ちする。