吹石徳一、10・19弾1週間後の引退勧告/パ伝説

88年10月19日、ロッテ戦の7回に一時勝ち越しとなる本塁打を放った近鉄吹石徳一

<復刻パ・リーグ伝説>

元近鉄内野手で人気女優・吹石一恵(37)の父、吹石徳一さん(67)は今年、日本新薬アドバイザー兼スカウティング業務の1年目を迎えた。昨年、同社監督を退任。プロ野球スカウト時代の手腕を生かし、人材発掘にあたる現役の野球人だ。1988年(昭63)10月19日の伝説のダブルヘッダー、ロッテ戦(川崎)の2試合目に一時勝ち越し本塁打。同年引退してコーチに転身した秘話を交え、当時を懐かしく振り返った。【取材・構成=堀まどか】

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球史を変えたかもしれない一撃だった。

猛牛ファンは、川崎球場に隣接する建物の屋上、踊り場まで埋め尽くした。スタジアムに熱気が渦巻いた伝説の10・19。西武を猛追してきた近鉄が、優勝まであと1勝に迫った第2試合。同点の7回、吹石は勝ち越しのソロをかけた。

吹石 園川の、俺はまっすぐを打ったつもりなんやけど。あとでスコアラーに聞いたら「スライダーですよ」と言ったくらいやから、あんまりどうしよう、ああしようとは考えてない。来た球をただ、強く振るというね。そこだけだったように思うな。

朝日放送の中継で「猛牛アナ」こと安部憲幸が、涙ながらの実況で伝えた。チーム事情で内外野を守り、1、2軍を行き来し、雪解けを待つ福寿草のようにじっと出番に備えてきたプロ14年生が、ついに打ったと。金村義明が10月13日ロッテ戦(川崎)で左手有鉤(ゆうこう)骨を骨折。シーズン大詰めで正三塁手を失う危機に存在感を見せたのが、吹石だった。最終決戦で2夜連続の2号。真喜志康永も3号ソロで続いた。

吹石 そりゃあもう、盛り上がった。お祭り騒ぎです。俺はあそこは代打かなと思うとったから。同点に追いついてなかったらたぶん、代打でした。

本人はそう振り返るが、猛牛ファンにとって「ここ一番の吹石」は特別だった。79年、広島との日本シリーズ第7戦の9回、代走で二盗に成功。最後は「江夏の21球」に阻まれたが、勝負強い走力をシリーズ史に刻んだ。翌80年、やはり広島との日本シリーズ初戦で江夏豊から同点犠飛、第2戦で池谷公二郎から3ランを放って連勝につなげた。この年も日本一には届かなかったが、吹石のしぶとさは本物だった。その選手がまた、大一番で打った。行ける、行けるぞ! 盛り上がりは最高潮だった。

それでも勝てなかった。7回裏、再び同点。8回に主砲ラルフ・ブライアントの34号ソロで勝ち越したがその裏、2失点完投から中1日で救援に回ったエース阿波野秀幸が高沢秀昭に同点弾を浴びた。

4-4の延長10回。試合時間4時間(当時)の時間制限で近鉄はロッテと引き分け、逆転優勝を逃した。プロがその一戦にかける思いのすさまじさを存分に見せた激闘が、吹石の現役最後の試合となった。

吹石 やめるつもりは全然なかった。最後に打ったし、これでまた来年1年できるなと思っとった。そしたら1週間くらいして、球団代表の前田さんから電話がかかってきて「明日、都(みやこ)ホテルに来てくれ」と。

告げられたのは2軍内野守備コーチのポスト。思ってもみなかった引退だった。「もう1年やりたいです」の言葉を飲み込んだ。恩師に電話した。近鉄入団時の監督、西本幸雄に身の振り方を問うた。

吹石 西本さんは「そういうチャンスはな、1年現役をやっても次、あるかないかわからんぞ。会社がそう言うてくれるんやったら、コーチをやれ」と言われた。わかりましたと返事しました。

区切りのプロ15年目を前に球団の要請を受け入れ、引退を決めた。翌89年、監督就任2年目の仰木彬に率いられた近鉄は再び西武と白熱のペナントレースを繰り広げ、本拠地・藤井寺でリーグ優勝を決めた。チーム力の充実を、吹石はわかっていたはずだ。もう1年現役にこだわれば、川崎の涙を藤井寺の歓喜に変えることができた…。それでも吹石から、決断を悔いる言葉は出てこない。

吹石 優勝できてよかったなあ、の気持ちだけ。ぼくの考えの中に、流れに逆らったらあかんという感じがあるわけです。何事においても。野球だけじゃなしに。上におる人が決める。それはそれでいいと。

梅の名産地、和歌山・南部川村(現みなべ町)の農家で生まれ育った。自然と共生する家で大きくなった。天が決める流れの中で生きる術を身につけていた。ただ何もせず、流れに身を任せていたわけではない。

吹石 プロで3年やって1軍に行けんかったら、分家して農業。家族とそういう約束をしてプロに入った。そうしたら2年目で1軍に上がれて。

誠実に力をつくしてきた。だからこそ、天は吹石に時を与えた。大舞台で力を振るう好機を得、それに応えた野球人生だった。

吹石 もし88年に球団の話を受けていなかったら、今があるかないかわからない。コーチ、スカウトを20年以上もさせてもろうて。近鉄しか知らないのに、楽天にも行った。現役をやめても好きな野球にずっと携われるというのは、少ないやないですか。

今も、吹石の人生は野球とともにある。1日1日の積み重ねで、88年の決断を今につなげた。(敬称略)

◆吹石徳一(ふきいし・とくいち)1953年(昭28)4月2日、和歌山県生まれ。南部から社会人の日本新薬を経て、74年ドラフト4位で近鉄(現オリックス)入り。主に遊撃、三塁手として活躍し、79、80年のリーグ優勝に貢献。88年で引退し、翌89年は1軍の内野守備走塁コーチとしてリーグ優勝を支えた。その後はスカウトなどを歴任し、04年のオリックスとの吸収合併による近鉄消滅で05年からは楽天に移籍。チーフスカウトなどを務めた。12年で楽天を退団し、13年から日本新薬に復帰した。

<編集後記>

思えば、数奇な運命だ。吹石さんは優勝を呼ぶ男。ただし、吹石さんの立場が変わったあとにチームは頂点に立つ。引退翌年の89年に、近鉄は9年ぶりのリーグ制覇。球団最後の優勝となった01年も、コーチからスカウトに転身していた。

楽天移籍後、07年から12年までチーフスカウトを勤め、同年11月末に退団。その翌年、楽天はエース田中将大(ヤンキース)の獅子奮迅の働きで日本一になった。「獲得した選手が頑張ってくれて優勝できたら、これはもう、よかったなあと思うだけ。日本新薬の選手にも『おれが監督やめたから、今年は優勝するぞ』って言うてるんよ」と前だけを見ている。

想定外の引退で、吹石さんは現役最後の試合を家族に見せることができなかった。この年限りと決めての引退だったら、夫人、3人の子どもたちはどんな思いで「10・19」のお父さんの本塁打を見ただろうか。