幕開けは巨人6000勝 野球よ国難を越えてゆけ!

巨人対阪神 7回裏巨人1死二塁、吉川尚(手前左)が逆転2点本塁打を放ちガッツポーズで歓喜する原監督(右から3人目)ら(撮影・江口和貴)

<深掘り。>

幾多の国難を乗り越え、プロ野球は85年の歴史をつないできた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で約3カ月遅れた20年シーズンが、各球場で開幕した。第2次世界大戦の戦火が強まった1945年(昭20)はシーズンを中止。95年の阪神・淡路大震災、11年の東日本大震災と未曽有の大災害時にも、選手はプレーを続け、社会に明るさをもたらした。草創期、戦時下を含め、多様な困難とも共に歩んだ巨人は、プロ野球史上初の通算6000勝を達成した。

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JR水道橋駅の東口から、東京ドームを目指して白山通りを北へ進む。いつものシーズン開幕戦ならあふれ返る人波も、巨人-阪神戦ならではの喧騒(けんそう)もない。大きな観覧車とジェットコースターを見上げる交差点を左折すると、植え込みに2基、黒々とそびえ立つ石碑が現れる。

「鎮魂の碑」。プロ野球草創期、ベーブ・ルースら大リーガーも抑え込んだ巨人の名投手、沢村栄治。沢村のライバルで投打二刀流の「闘将」と恐れられた阪神の景浦将、神風特攻隊として戦死した唯一のプロ野球選手、石丸進一…。

37年7月の盧溝橋事件から次第に拡大した日中戦争、それに続く41年からの太平洋戦争でプロ野球は多くの命を失った。戦場に赴き、ついに帰らなかった選手たち。戦争に散華した霊を慰めるために、81年に建立された「鎮魂の碑」。現在まで73人の名が刻まれる。巨人大塚球団副代表は「偉大な先人の方々が、どういう思いで歴史を築いてきたか。知ることは、とても大切なこと」と感じている。

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36年に日本職業野球リーグ戦として発足したプロ野球は、今季で85年目を迎える。戦争、大震災、多くの国難に遭いながら、シーズン中止となったのは45年の1度だけ。開幕の延期は、東日本大震災が起きた11年以来、今季が2度目。プロ野球は国難とともに歩み、いかに立ち直ったか。

終戦直後からプロ野球復活への足取りを追う前に、戦火が激しさを増した44年シーズンに目を向けたい。

選手は「産業戦士」と呼ばれる軍需要員となり、工場で働きながら6球団で公式戦を続行した。巨人は沢村栄治、「打撃の神様」川上哲治らがすでに戦地に応召されるなど16選手が抜けていた。後楽園球場の外野は食料不足のためイモ畑になり、トウモロコシやジャガイモ、キュウリが茂った。甲子園もイモ畑だった。

戦闘帽をかぶり、ユニホームは国防色のカーキ色に。英語は敵国の言葉とみなし、ストライクは「よし1本」、三振は「それまで」とした。優勝は選手14人の阪神で、35試合で計16万7786人が集まった。同年夏には米国領のサイパン、グアム、テニアンで日本軍は玉砕。攻撃が激化した11月13日、東京会館の薄暗いロウソクの下、翌年のプロ野球中止が発表された。

わずか19日後、12月2日午前4時30分。沢村栄治を乗せて福岡・門司港から台湾、フィリピンに向かった輸送船が屋久島の西約150キロの東シナ海で米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没した。沢村は27歳だった。

45年8月15日、25歳の陸軍少尉だった川上哲治は終戦の玉音放送を東京・立川の航空整備部隊として聞いた。「ガーガーと雑音が入って、本当は内容もよく聴き取れず、本土決戦かと勘違いしたほどだ。日本は負けたんだという情報が入ったのは、だいぶあとからだった。終わったという感覚を覚える暇もなかった。混乱していたからね」(日刊スポーツ「この道500人の証言」)。

のちに監督としてV9を達成。選手、コーチ、監督時代を含め、球団歴代1位の通算2473勝に携わった。ただ終戦直後は野球から離れた。家族を養うため、故郷の熊本・人吉で畑仕事に従事する道を選んだ。

東京には焼け野原が広がった。プロ野球復活は比較的被害が小さかった関西から機運が高まり、巨人も戦争で散り散りになった選手の消息を求めながら立ち上がる。兵役から愛媛・松山に戻った千葉茂は、受け取ったはがきを読んだ興奮を生涯忘れなかった。

「オレは5日分のにぎり飯をつくって、焼け残ったバットを握って連絡船を待った。東京まで3日ぐらいかかったかな。終戦から3カ月後に早々と野球をやる。プロ野球は健在なりと、のろしを上げる。まあ、本当にうれしかった」(「読売巨人軍75年史」)。

のちに野球殿堂入りする名二塁手。日本で初めてカツカレーを注文した逸話を残し、東京・銀座の「銀座スイス」が発祥の地とされている。46年2月、巨人は千葉の故郷、松山市で春季キャンプを張る。山へ川へ食料調達に出向き、練習は3日に1度ほど。それでも1日でも早く野球をやりたい選手と、見たい人々の思いは日に日に高まった。

4月27日、後楽園と西宮球場で2年ぶりのプロ野球が開幕した。入場料は大人5円20銭、子供3円。後楽園の開幕戦入場数は3700人だった。5月12日の阪急戦で、巨人は通算500勝を達成。川上哲治が畑仕事から巨人に復帰したのは6月末。焦土の中「赤バット」の川上、「青バット」の大下弘(セネタース)のライバル関係にファンは夢を見た。

娯楽が乏しかった時代、爆発的人気になるまで多くの時間はかからなかった。46年シーズンの総観客数は、戦前将来の目標に掲げた「観客動員100万人」を大きく上回る156万1135人が集まった。

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プロ野球復活の年に挙げた通算500勝から、巨人は74年で5500の白星を積み重ねた。今季は多くの犠牲者を出した戦争とも、大震災とも違う、見えないウイルスに立ち向かうシーズン。今村球団社長は「すごく責任があると思ってます。あらゆるエンターテインメントが止まっている。ジャイアンツ、プロ野球が先陣を切って前に進んでいく。先例にならないといけない」と歴史をつなぐ使命を感じている。

終戦直後の混乱期、今年生誕100年を迎えた川上哲治には数々の伝説が残った。「川上は戦時中も野球を忘れなかった。バットがなくても軍刀で木を切り倒し、玉音放送を聞いた直後、日本で最初に素振りをした-」。

後年、自らの逸話について「戦争はそういうものじゃない」と短い言葉で否定した。11年の東日本大震災時、甚大な被害を目の当たりにした選手たちは「今この状況で野球をやっていいのか」と繰り返した。国難に直面すれば、たやすく「野球で勇気を」とは言えない。それでも野球がある日常に熱狂し、救われる人々がいることは、今も昔も変わらない。

原監督は「我々12球団が勇気を持って、プロスポーツの先がけとしてスタートを切る。いつの日か、日本中が一喜一憂できるスポーツ界、世の中が戻ってくれば」と願う。プロ野球85年目のシーズンは、1年の中止があるから実質84年目。先の見えない暗闇を抜け、選手やファンが待ち望んだ特別なプレーボールがかかった。(一部敬称略)【前田祐輔】