阪急足立光宏の胆力、76年巨人下し日本一/パ伝説

76年の日本シリーズ第7戦、巨人を破り胴上げ投手になった阪急足立光宏。手前は駆け寄る中沢伸二

<復刻パ・リーグ伝説>

1960年代後半から始まった阪急ブレーブスの黄金期で、巨人との日本シリーズに無類の勝負強さを見せたのが足立光宏さん(80)だった。シリーズ通算9勝(5敗)のうち、8勝(4敗)は巨人戦。うち5勝はV9ジャイアンツから挙げた。数多い名勝負の中でも、ファンの心に残る一戦は76年第7戦。敵地・後楽園で2失点完投の力投で、巨人を倒して日本一になった。知力、胆力、投球術を兼ね備えた希代のサブマリンが決戦を振り返る。【取材・構成=堀まどか】

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伝説は、本当だった。1976年11月2日、後楽園球場。劣勢にいらだつ巨人ファンがミカンを投げ込み、いくつもマウンドに飛んできた。オレンジのつぶてを眺めながら、投手はつぶやいたという。「騒げ、騒げ、もっと騒げ…」と。

足立 うん、そうやね。うるさいなと思っていたら、雰囲気にのみ込まれるか巻き込まれるか。だからそういうふうに考えようと。

44年前の秋を振り返る足立の声は、当時の投球同様に淡々としていた。

阪急の日本一への挑戦は、5度も巨人にはね返されていた。75年、広島を倒してシリーズ初制覇。翌76年、4年ぶりの巨人との頂上決戦で阪急は初戦から3連勝した。第4、5戦で連敗も、第6戦は5回表終了時で7-0とリード。だが先発の山口高志がつかまり、救援した山田久志も止められない。延長10回サヨナラ負けで3勝3敗。

足立 また明日やなあ。やらんならんなあと。そんな気持ちやった。

決戦前夜、なじみのバーで2杯ほど飲み、午後11時には宿舎に戻って熟睡。体力は不安なし。ゲームプランも組み上がっていた。

足立 9回投げて3点を目標にした。それ以上うちが取ってくれたら優勝できるし、それ以下なら仕方ない。初回に3点取られてもあとゼロなら、交代せんかったらいいと思ってマウンドに立ちました。

大阪で育ち、幼いころは戦火をくぐった。ただ戦争体験だけで強化された腹の据わり方ではなかった。

足立 オープン戦も一生懸命やってれば。普通の試合を特別と思っていればね。普段との気持ちの落差がありすぎると、ここぞというときにリラックスした気持ちが出ない。153も負けてえらそうなことは言われへんけど、力の差で負けることはあるけど、ビビって負けることはなかった。

平常心を保てる能力こそが真骨頂だった。

足立 学んだいうか、教えられたいうか、自分で覚えたというか。投手は平常心で、喜怒哀楽を出すことをマウンドでしないように。エラーが出れば腹は立つけど、それを態度に出さんようにしようと思ってた。

勝つか負けるかの瀬戸際で、やはり足立は冷静だった。第7戦。1-1の6回裏、失策で巨人に1点を勝ち越された。ピンチは続き、同年にベーブ・ルースの714号を抜いた王貞治が打席に立つ。シリーズでも3本塁打の王を歩かせ、1死満塁にした。続くのは淡口憲治だった。

足立 ゲッツー崩れで、もう1点取られるのが嫌やったんですよ。外野フライで1点はしゃあない。自分が外野フライを打たれる球を投げたということでしょうがないけど、「よしっ」と思った当たりで併殺を取れない。あれが嫌やった。

ロベルト・マルカーノ-大橋穣の名二遊間が、確実に併殺に取ってくれる打球。二塁正面に速い打球を打たせて併殺に取るのが理想だった。

足立 打者はもちろんシンカーを狙ってる。あまりシンカーをいいところに放ると(勝負として)ぼくが勝ってもゲッツーにならん可能性があるわけですよ。ちょっとコースが甘くて高さだけ間違わんかったら、必ず引っ張るからセカンドゴロになる、という気持ちで放った。あの球をね。

真ん中低めに落ちた宝刀シンカー。打球は足立めがけて飛び、「投-捕-一」の併殺が成立した。

足立 ヤマやったね。あの試合のね。

7回、森本潔が逆転2ラン。スタンドがどれほど騒ごうが、足立は巨人に再逆転を許さなかった。

足立 自分の勝ち負けやない。チームの勝利が大事。俺は俺の仕事をしたらええと思うようにしてた。

阪急は日本シリーズV2を果たした。

熟練のサブマリンを育てた要素はいくつもある。米田哲也、梶本隆夫の背中を追い、場内のファンが数えるほどであろうが援護がなかろうが、ぶれないエース道を学んだ。右肩を痛め、シンカーを武器に打たせて取る投球に活路を見いだした。大好きな時代小説で、顔色一つ変えずに真剣勝負に臨む武士に心打たれた。豊かな感性が阪急の環境に磨かれた。「強かったいうか、よう勝った」と述懐する巨人戦での好投がそこから生まれた。この人への思いも無縁ではないだろう。

足立 西本さんに出会えたのがよかったね。野球のこと、基本的なこと、どうあるべきかというのをね、感じ取れるような指導者やった。我々、選手がね。

ブレーブスを戦う集団に変えたのは、63年に監督に就任した西本幸雄。手を出し足も出し、全力でチームを率いた闘将は阪急でのシリーズ初出場から5度巨人に敗れ、日本一を知らずに去った。

足立 悔しがってたからね。巨人の川上(哲治)さんとは同年代。負けたくなかったんやと思う。

76年シリーズ制覇直後、足立は西本に「巨人に勝ちましたよ」と電話で告げた。「勇者」の投手に育ててくれた恩師への、感謝の優勝報告だった。(敬称略)

◆足立光宏(あだち・みつひろ)1940年(昭15)3月10日、大阪府生まれ。西高(大阪)から社会人の大阪大丸を経て、59年に阪急入団。62年5月24日の南海(現ソフトバンク)戦で1試合17奪三振のプロ野球記録(当時)を樹立。67年には防御率1・75で最優秀防御率のタイトルを獲得し、最優秀選手、ベストナインにも選ばれた。69年日本シリーズ優秀選手賞を受賞。80年に引退。阪急一筋実働21年で通算187勝153敗3セーブ。日本シリーズ通算26試合登板は2位タイ、先発19試合は史上最多。引退後は阪急2軍投手コーチ、阪急、オリックススカウト、関学大コーチなどを務めた。

<取材後記>

足立さんといえば阪急の後輩、山田久志さんとのシンカーを巡るやりとりが有名だ。山田さんの投手寿命を延ばしたい一心で指導を拒否したとか、頃合いを見計らって握りを見せたという逸話も生まれた。足立さんが力説するのは、山田さんは山田さんのシンカーで勝負したということ。「教えても自分で工夫するしかない。指の長さも筋力も違う」。山田さんはヒントを得て自身の球を作り上げた。足立さんのシンカーは足立さんの勝負球だった。

78年のヤクルトとの日本シリーズ最終戦。0-1の6回、大杉勝男に後楽園の左翼ポール際に飛ばされた球もシンカーだった。本塁打と判定され、上田利治監督は79分にも及ぶ猛抗議。判定は覆らず、足立さんは降板した。痛めていた左膝に水がたまった。中断は30分が限界だった。「あれは失投。むこうもミスショット。ファウルやからね。でも、取り返せる。(判定を)受け入れて試合をやろうという気にみんな、なってたんよ」と自身のシリーズ最後の1球を振り返った。