<復刻パ・リーグ伝説>
三沢(青森)のエースで69年夏の甲子園準優勝を果たした太田幸司さん(68)は、1位指名で入団した近鉄で7度の球宴出場を経験した。プロ1年目の70年から3年連続ファン投票1位で出場。実績が伴わずに肩身の狭い思いをしたが、プロとして生きる道を教えてくれたのは72年球宴の甲子園での先発だった。球場に力をもらい、名捕手・野村克也に支えられた復活の夢舞台を振り返る。【取材・構成=堀まどか】
「投手・太田幸司」は、甲子園で2度生まれた。
69年夏の甲子園決勝。松山商(愛媛)・井上明との白熱の投手戦は0-0のまま延長18回を終え、翌日の引き分け再試合で惜敗した。東北に夢を見せた美貌のエースは、甲子園のアイドルに。熱狂とともにプロ野球に迎えられ、1年目から球宴メンバーに選ばれた。
太田 自分の第2の、プロ野球人としてのスタートの場所になったのはオールスターですね。
70年から3年連続ファン投票1位で出場。3年目の72年、人生をかけて太田は球宴に臨むことになる。
太田 どん底に落ちて、新しいプロとしての太田幸司のピッチングを作りたい。そういう気持ちで臨んだオールスターでした。
1-0で全セが勝ち、全パ先発の太田は3回1失点で黒星がついた。ただ巨人王貞治、長嶋茂雄を2打数無安打に抑えた。乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負をかけた結果だった。
プロ1年目の太田は開幕1軍入りし、4月14日ロッテ戦(日生)の救援でプロ初登板初勝利を挙げた。同年は1勝4敗に終わるも、手応えをつかんだ。だが2年目、状況は暗転した。
太田 バラバラになったから。上での登板は敗戦処理みたいな試合ばっかりやったし、途中で2軍に落ちて。2年目は地獄。2年目終わったときに、もう野球やりたくない、やめたいって本当に思ったんです。
1軍14試合で0勝1敗。外圧が原因ではなかった。
太田 甲子園で投げていたときの方がいい球行ってるよな。プロ入って球遅くなったな。甲子園のときはあれだけ速かったのに…そんな感じです。いろんなことを考えて本来の自分の投げ方やバランスを崩してしまった。球は行かないし。
三沢時代の姿が頭に浮かんで、離れなかった。
太田 ある人から言われました。いつまでも甲子園で投げていたのがお前のベストピッチやと思ってたら、間違いやでって。今のお前はまっすぐとカーブしかないけど、プロの投手になるんやったら、そんなんじゃ無理。何か新しいことを、違うことをやらないと。
行き詰まり、シュート、スライダー習得に活路を見いだした。近鉄にスライダーの達人、清俊彦がいた。清の投球を観察し、新球を投げやすいように、腕をスリークオーター気味に下げた。生まれ変わろうと変化を求めた2年目のオフ、大阪・羽曳野市内の新居に青森から両親を呼び寄せた。両親との暮らしは精神的な安定をくれた。迎えた3年目、またも球宴のファン投票は太田が1位。3年連続の球宴に臨む直前、太田は1軍に呼ばれた。7月20日の西鉄戦(平和台)に先発し、9回2失点で勝った。2年ぶりのプロ2勝目を挙げて向かった球宴で、太田は全パを率いる阪急監督の西本幸雄から甲子園の第3戦での初先発を告げられた。
太田 よし、今のスタイルをぶつけようと。新しいスタイルのピッチングが通用するのかどうか。一発かましたれ、みたいな気持ちで向かいました。
全国を熱狂させた高校時代の気迫がよみがえった。頼もしい女房役がいた。「調子ええらしいやないか。シュート、スライダーと投球パターン変えて」と声をかけてきたのは南海(現ソフトバンク)の選手兼任監督、野村克也。初出場の球宴もバッテリーを組んでいた。「とりあえず、思いきり投げて来い」としか言わなかった野村が2年後、本気の指示を出した。「持ってる球を全部使って、抑えにかかるぞ!」と。
1972年7月25日、3万1937人をのみ込んだ甲子園。サクッサクッとスパイクの刃が吸い込まれていくような土の感覚。名捕手が構えるミット。すべてが、生まれ変わろうとする太田の力になった。0-0の3回、阪神池田祥浩の適時打で1点を失った。なおも得点圏に走者を背負い、王、長嶋を迎えた。
太田 王さんを外からのスライダーで泳がせてショートフライ。長嶋さんには…普通、球宴でシュートとか投げにくいのよ。でも、そんなこと言うてられへん。胸を借りるつもりで思いっきりシュート投げて、セカンドゴロ。他の捕手なら長嶋さんにシュートのサイン、出してないかもしれん。でもまさに覚えたシュート、スライダーで王さん、長嶋さんを抑えたんです。
野村が「ナイスピッチングや」と笑いかけてきた。
太田 松坂君じゃないけど、自信が確信になった。これで来年以降もやれるって。甲子園は俺を見捨てなかったのかなと思えたね。
ファン投票による球宴出場は72年で途切れた。だが73年、本格的に先発陣に加わった太田は、西本による監督推薦で球宴に出た。
太田 本当のオールスター選手になったなって思えました。
翌74年、太田は初の2桁10勝を挙げた。よみがえり、チームを背負う存在になった。再出発の地こそ、甲子園だった。(敬称略)
◆太田幸司(おおた・こうじ)1952年(昭27)1月23日、青森県三沢市生まれ。三沢2年夏から投手として3季連続甲子園出場。3年夏には松山商と大会史上初の決勝戦延長18回0-0引き分けの熱戦を演じた。翌日の再試合に2-4で敗れ準優勝。69年ドラフト1位で近鉄に入団。75年12勝をはじめ2桁勝利3度。巨人、阪神を経て84年引退。通算318試合、58勝85敗4セーブ、防御率4・05。現役時代は176センチ、76キロ。右投げ右打ち。勝衣夫人との間に2男1女。MBS解説者として活躍するかたわら、09年8月から日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーを務める。
○…甲子園の交流試合が17日、閉幕した。新型コロナウイルス感染拡大で春夏の甲子園大会は中止になったが、太田さんは「何年もたったら、いい思い出になると思いますよ」と、いつもと違う夏の意義を優しい目で語った。
甲子園という目標に向かって「チームとして何をやったか、どんな練習をしたか、どういうつながりで3年間やってきたか、それが大事なんだから」と自身の三沢時代を振り返る。小学校からの仲間と白球を追う夢が、進学の決め手だった。「気の合ったやつらと一緒に野球をやって、人生勉強もする。それが高校野球の本質だと思う」。今も青森には帰省を待つ球友たちがいる。それが財産だ。
独自大会で勝ち進んでも、甲子園につながらなかった。だが勝利優先なら「出場できなかった選手も、今年の夏は試合に出られたんじゃないかな。高校野球の原点に戻ったんじゃないかな」。今年の夏が特別な夏になることを願った。