初公開“闘将”の野球人生凝縮した自室/星野氏編1

星野仙一氏が生前過ごしていた自室。手前の椅子が星野氏の定位置で、いつもこの光景を目にして過ごしていた(撮影・加藤哉)

<大型連載「監督」:星野氏編(1)>

日刊スポーツでは大型連載「監督」をスタートします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。今回初めて本人が好んだ自室が明かされました。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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その空間に入ると、今にも闘将がよみがえってきそうな気配がした。星野仙一が逝って3年の歳月が流れようとしている。その後“星野の部屋”が明らかにされるのは、これが最初で最後だ。

そこは“燃える男”の野球人生が凝縮していた。大きな扉を開けてピアノの先にある焦げ茶色をした革のソファが指定席。「ちょっと行ってくるわ」。いつも食事を終えるとそう言って身を沈めた。

そこから左側の壁に明大監督の島岡吉郎と腕組みして言い合う興味深い写真が掛けられている。倉敷商監督の矢吹怗一がOBだった縁で明大進学。当時の同大学でエースで主将は珍しかった。

母敏子の胎内にあった7カ月ごろに父仙蔵を亡くした。島岡は「恩師」と敬い「オヤジ」と慕った存在。付き人兼運転手で、スリッパをそろえ、ライターでタバコにさっと火をつける。リーダーとしての処世術はこの時代が原点といえる。

プロ入り当時の監督は水原茂で、意外にも影響力が大きかったのは、ハワイ出身の日系2世、巨人V10を阻止したウォーリー与那嶺だったという。走塁技術、内外野の連係プレーなど近代野球の必要性を学んだ。

現役引退の際、中日オーナー加藤巳一郎から「地元で評論家をする必要はない。井の中の蛙(かわず)だ。東京で修行してこい」と勧められ、NHK、Number、日刊スポーツで解説、評論をする。

そのタイミングで出会ったのが、元巨人監督の川上哲治、藤田元司らだ。全国紙大手の読売新聞が親会社だった名将川上は、中日新聞がバックの星野を受け入れる器を見せた。

中日監督に就く際、実績とふところの深さにあやかりたいと、川上と同じ背番号77をつけた。部屋のソファから右斜めの壁には中日、阪神、楽天で優勝した星野が宙に舞っている。

監督1年目の1986年、ロッテから自身3度目の3冠王に輝いた落合博満を獲得し、中日牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂を放出する1対4の世紀のトレードを成立させた。

39歳だった青年監督の挑戦。世間を騒然とさせた当時、真夜中に電話を受けたある人は「星野はびびっていた。野球人生の大勝負だったんだろう。興奮していたな」という。

阪神でも03年優勝の前年オフ、26人に及ぶ選手、スタッフの入れ替えを断行する。粛正と大補強によってチームに息を吹き込んだ改革はトップの決断力がなければ結実しなかった。

コーチは「選手に嫌われてくれ」と引き締めた。選手とのパイプ役として、参謀で腹心だった島野育夫は、今もソファの隣で等身大パネルになってにらみを利かせる。

逆境に強い男。08年北京五輪はメダルなしで批判を一身に受けたが、13年楽天を率いて日本一を成し遂げる。東日本大震災から2年後の奇跡はみちのくの希望の灯だった。

星野にリーダーの条件を尋ねたことがある。

「理論、ディスカッションで部下に負けてはいけない。そして、リーダーに大事なのは『情』だ。『愛情』『非情』『情熱』…。あえてもう1つ言うと『恐怖感』だろうな」

たまにこの部屋でマイクを握った。荒井由実の「卒業写真」だったかと思うと、高橋真梨子も歌唱した。もうそのソファに主(あるじ)はいない。そこに現れて座ったのは、1人の女性だった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京五輪で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。