野原将志さん語るドラ1転職の難しさ/あの猛虎は今

元阪神の野原将志さんは現在、建築用可搬式作業台レンタルの営業マンとして九州全土を駆け回っている(本人提供)

虎にはかつて、巨人坂本と比べられた大型内野手がいた。阪神06年高校生ドラフト1巡目で指名され、13年限りで退団した野原将志さん(32)は現在、建築用可搬式作業台レンタルの営業マンとして九州全土を駆け回っている。社会人野球の三菱重工長崎で3年間プレーした後、16年シーズンで現役を引退。現在勤務する会社に転職するまでには「ドラフト1位」ならではの葛藤、覚悟があった。【取材・構成=佐井陽介】

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作業着に身を包んだ野原さんの表情は、現役時よりも柔和に写る。17年、建築機器レンタルを手掛ける吉田泰産業株式会社に中途入社。建築用可搬式作業台レンタルの営業を任され、今では九州全土を駆け回っている。

「前の現場でお世話になった所長さんから『またよろしく』と連絡をもらえた時はうれしいですね。最初は会社、メーカーの商品力に助けられるばかりだったけど、その中で『野原さん、次もちょっと協力してくれん?』と言われた時はやっぱりうれしいです」

本社は大阪。九州担当の営業マンは福岡市在住の野原さんだけだ。「見積もりを作って現場に向かって。全部1人です」。裁量の大きさはそのまま日々の喜びにつながっている。

06年に高校生ドラフト1巡目で阪神入団。13年限りで縦じまを脱ぎ、14年からの3年間は三菱重工長崎でプレーした。16年シーズンで現役引退後は周囲のサポート、紹介にも恵まれ、半年ほど不動産業界で働いた。ただ、どうしても「元プロ野球選手」という肩書に頼っている自分に納得できず、退職の道を選んだ。

「今までは野球関係のつながりに助けてもらってばかりだった。退職後もまた紹介の話をいただいたりしたけど、次は仕事を探すところからすべて自分の力でやってみよう、と。転職サイトに登録して履歴書を作るところから始めました」

経歴が原因で面接に落ちることもあったという。

「我々はドヤされても泥水をすすってでも稼がないといけない。元プロ野球選手のあなたにそれができるんですか?」

面接官から強い口調で全否定された時は歯を食いしばるしかなかった。

「ずっと2軍暮らしだった僕でさえ、華やかな世界でチヤホヤされたイメージがあったんでしょうね」

何社も落ちた。3歳と1歳の子供を持つ身ながら、無収入の期間が3カ月続いた。それでも愛妻は信じて待ってくれた。ようやく現在の会社に入社が決定。「お金を稼ぐ大変さを痛感しました」。32歳は今、忙しい毎日に感謝を忘れない。

ドラフトでは同じ高卒内野手で中日に入団した愛工大名電・堂上直倫の外れ1巡目で指名された。同じく堂上を指名した巨人はこちらも高卒内野手の光星学院(現八戸学院光星)・坂本勇人を外れ1巡目で指名。一気にスターダムを駆け上がった坂本とは当初、何度となく比較された。

「坂本選手だけでなく同学年の多くが若いうちから活躍した世代の1巡目。いつかは僕も、負けたくない、という気持ちが強すぎたのかもしれません。阪神タイガースのドラフト1巡目という肩書は、僕には重かったのかもしれませんね」

プロ7年間で1軍出場15試合。期待に応えられなかった悔しさは残るが、球団、監督、コーチ、チームメートには感謝しかない。

「結果を出さないといけないという緊張感、厳しい環境の中でやらせてもらえたことはすごく幸せでしたし、今にもきっと生きていると思います」

サラリーマンになった直後は、プロ野球選手時代の日々とのギャップに苦しんだこともあった。ほろ苦く照れくさい記憶だ。

「最初は生活から彩りがなくなったように感じたんです。阪神時代は頑張れば満員の甲子園でプレーできる目標があった。毎朝、満員電車に乗って同じような仕事を続ける毎日が最初は大変でした。でも、それはこの仕事の幸せをまだ見つけられていなかっただけで…。何事も自分のためだと限界が来るけど、家族のため、支えてくれる人のためなら明日もまた頑張ろうと思えるじゃないですか」

目元に見えた笑いジワから、充実感が漂った。

◆野原将志(のはら・まさし)1988年(昭63)4月4日、長崎県生まれ。長崎日大では通算30本塁打。06年高校生ドラフト1巡目で阪神入団。10年はウエスタン・リーグ最多タイの103安打、打率3割3厘、7本塁打でリーグ優秀選手賞に。1軍通算15試合出場、25打数3安打、打率1割2分。13年オフに戦力外通告を受け、14年から3年間は三菱重工長崎でプレー。16年オフに現役引退。家族は夫人と1男1女。184センチ、85キロ。右投げ右打ち。