震災、がん、再発… 盛岡中央・奥玉監督の10年

PL学園の恩師・中村順司元監督と同校先輩が書いた色紙の前に立つ奥玉監督(撮影・保坂淑子)

<あれから10年…忘れない3・11~東日本大震災~>

盛岡中央(岩手)野球部・奥玉真大監督(46)のこの10年は、生きることの闘いだった。実家の宮城県気仙沼市で家業を継いでいた11年、東日本大震災で被災。気仙沼出身ながら幼い頃、KKコンビに憧れPL学園中に編入。PL学園、東北学院大、社会人でプレー。引退後は裸一貫、ただ生きるために走り続け、2度にわたるがんとも闘い、克服した。強い気持ちを胸に、これからも歩み続ける。

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「いくぞー!」

「はい! お願いします!」

今日も盛岡中央のグラウンドには、奥玉監督と選手たちの元気な声が響き渡る。1打、1打、丁寧なノックが打ち放たれると、選手たちは元気よく白球を追いかけた。よく「野球の指導者はノックが打てなくなったら終わりだ」という人もいる。奥玉監督も「野球ってね、言葉じゃなくてもノックで分かり合えること、通じ合えることがあるんです」と、野球人として心を交わす大事なコミュニケーションとして捉えている。そして、選手たちの生き生きとした目を見て、心底思う。「今はこれが生きがい」と。

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「先生、僕はまだ死ねないんです」。医師に懇願したのは18年3月のことだった。「体調が悪いな」。病院での診断は後腹膜脂肪肉腫だった。「故郷の気仙沼で震災に遭い、何とか生き延びて生活も立て直した頃でした。正直、なんで俺ばっかりって思いましたね(笑い)」。ただ、前だけを向いて生きてきた7年。娘2人はまだ幼く、長男は中学2年。プロ野球選手になる夢をかなえるため、PL学園の同級生・藤原弘介氏が監督を務める強豪校、佐久長聖(長野)への進学を希望していた。一緒に生活をしながら野球のサポートをしてあげよう。それが父親の務めと思っていた時の出来事だった。

父は息子と向き合い正直に打ち明けた。「父さんはね、がんなんだ。かなり大きな腫瘍で厳しいかもしれない。まだまだ一緒に野球をやってあげたかったけど…。本当に申し訳ない。でも、やれることはやってあげるからね」。息子は涙を流しながら、小さくうなずいた。息子の涙を見て思った。「まだ死ねない」。強い抗がん剤治療を選択した。髪は抜け、強い吐き気に襲われた。時には幻覚が見えることもあった。野球で鍛えた体力は見る見る衰え、体重は15キロ落ち、携帯さえも持てないほどだった。「でも、もういいとあきらめる気持ちは一切ありませんでした。何とかして乗り切ろう、と。もちろん、毎日がきついし、このままだめになっちゃうかもな、しんどいなぁという気持ちの浮き沈みはありました。でも、私はまだ死ねませんから」。

それでも抗がん剤の効果はなかなか出なかった。わらにもすがる思いで東京の病院でセカンドオピニオンを受診。18年9月、「五分五分」といわれた手術に踏み切り、27センチにも及ぶ腫瘍と腎臓を摘出した。

19年4月、盛岡中央の監督に就任した。「一番自分がやりたいと思っていたのが高校野球の監督だった。自分の原点はPL学園で学んだ野球ですから。いつか自分も、という思いでした」。念願だった高校野球の監督就任。しかし、運命のいたずらか。そのわずか2カ月後の6月にがんを再発。長野の高校に進学した息子も面会に訪れるなど、周りの動きに状況の悪さを直感した。「もう、だめかもしれない」と。後に知らされたが、実はこの時、家族は余命宣告をされていたという。しかし、奥玉監督はあきらめなかった。「7月の夏の大会開幕までにはグラウンドに戻る。子供たちが待っている。それが、生きる力、自分を鼓舞する力になりました」。

生きて、グラウンドに戻る。選手たちには病気は知らせず、強い気持ちで病気と闘い、難しいといわれた手術は成功し根治。現在は、毎日元気に選手たちと練習をしている。

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11年3月11日の震災があって、今の自分がいる。「あの時は、生きるか死ぬか。とにかく生きることがすべてでした。この10年は、人生の中においての震災というよりは、震災を経ての人生に切り替わっているような気がするんです。いろいろなことがありすぎましたから。正直、今もまだ一生懸命に生きようとしている自分がいます」。

真っ赤に燃える気仙沼湾。地震から約3時間後に津波により破壊された燃油タンクから大量の重油が流出し、火の海に包まれた。営んでいた酒店と自宅が目の前で流されていく。海が燃え、波とともに炎も押し寄せる。生まれ育った町が燃え上がるさまをただぼうぜんと見つめながら、死を覚悟した。ヘリコプターで救助され避難場所となった中学校で2カ月間過ごした。お金も持ち物も何もない。しかし、幸いに家族や近い親戚は皆、無事だった。「寝られるところ、食べるものが自衛隊から供給されるようになって、気持ちが切り替わっていきました。だって、生きているんですから。それで前を向けたんだと思います」。その日を何とか生き延びることだけを考えた。家族を養うために、がれき撤去にヘドロかきの仕事と、なりふり構わず働いた。

2次避難でホテルへ移り、1カ月後には仮設住宅へ。1日1日を生きる中で、少しずつ生活が取り戻されていく。「前へ、前へ。あぁ、よかった、の連続ですよ」。日常の取るに足らないことに幸せをかみしめ、生きていることを感謝した。

だから-「生きる」ことをあきらめない。

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震災がなければ…。そんな人生もあったかもしれない。「でも、今の人生は悲観していないんです。これが僕の人生。いろいろありましたが、一生懸命生きてきましたから」。この10年に、1つも後悔はない。「今の努力、頑張りは将来の自分に必ずつながっているんだから。よく選手たちにも、今を一生懸命生きよう、という話をします。震災も病気も。今を一生懸命やらなければ、次のステージには進めませんから」。震災で助けてくれた人たち。手術で命を助けてくれた医師たち。そして、野球のチャンスをくれた人たち。命をつないでもらい、人生をつないでもらっていることを、頭と体に刻み込み、毎日を生きている。

「僕はね、ものすごく運がいいんです」。震災を経験しすべてを失い、さらにがんの闘病、そして再発。そのひとつひとつを、奥玉監督は時折、笑顔を交えながら話す。「だって、結果的に何とか生き延びていますもん(笑い)。しかも、全部いい方にいっているでしょう? いやぁ、皆さん僕と同じ状況になると、同じことをしますよ」。そう言ってアハハと笑った。震災に病気。死を覚悟した人間の極限状態を経験したからこそ分かる強さと優しさが染み出ていた。

奥玉監督の携帯には、今でも地震の直後、真っ赤に染まる気仙沼湾を撮影した写真が収められている。「今を一生懸命生きながら、自分の経験したことや、自分が生きてきたことを次の世代につないでいくのが自分の役割なのかと思っています」。今は、選手たちと甲子園出場、岩手から日本一が目標。そして、息子、娘たちの成長も楽しみでならない。これからも強く生きていく。【保坂淑子】

◆奥玉真大(おくたま・まさひろ)1974年(昭49)8月21日、宮城・気仙沼生まれ。気仙沼中1年11月に、PL学園中学に編入。PL学園では92年センバツ出場。同期にロッテ今岡真訪コーチ、1つ下に西武松井稼頭央2軍監督がいる。東北学院大、ヨークベニマル、サンワード貿易でプレー。99年に引退後、気仙沼に戻り家業「奥玉屋」を継ぐ。12年から17年まで富士大でコーチ、助監督を務め、19年4月、盛岡中央の監督に就任。家族は妻と1男2女、母、祖母。