草魂鈴木啓示に技巧派の道開いた「予言者」有田修三氏/パ伝説

近鉄の名捕手だった有田氏は、経営する居酒屋でお客さんとの野球談義を楽しんでいる(撮影・高野勲)

<復刻パ・リーグ伝説>

近鉄2連覇を捕手として支えたのが有田修三氏(69)だ。現役時代は梨田昌孝氏(67)と「ありなしコンビ」を形成。「正捕手が2人いる」と他球団からうらやましがられた最強ペアだった。

引退後はコーチとしても活躍。ABCの野球中継では「断言解説」「予言者」と多くのファンをうならせる。現在は大阪・羽曳野市で居酒屋を経営。訪れるファンと野球談議を楽しむ毎日を送っている。【取材・構成=高野勲】

有田家は野球一家だった。兄2人も甲子園に出場しており、山口・宇部市内の実家には聖地の土が2つもあった。自身も宇部商3年夏に甲子園出場。取手一(茨城)に初戦敗退したものの、立派に面目を保った。

新日鉄八幡を経て、72年ドラフト2位で近鉄に入団。配球も含め、守りではプロでやっていく自信はあった。ところが打撃練習では、打球が外野にすら飛ばない。ここから通算128本塁打につながる打力を身につけた。

有田 入団3年目くらいのシーズン中です。バットのヘッドを先に出し、センターに向けて腕を出すようなコツをつかんだんです。いい当たりがファウルにならず、ヒットも出るようになりました。真面目に物事に取り組んでいたら、人は一瞬で変わることがあるんです。だからコーチになってからも、選手を見放すことは絶対にしませんでした。

強気のリードで鳴らしながらも、起きている間は一瞬の例外もなく「いかに投手を成功させるか」ばかり考えていたという。通算317勝を挙げた鈴木啓示とのコンビも光った。「アンタこんな球で、よう勝てますな」などとハッパを掛けることもあったという。入団当初から声を掛けられ、よく行動をともにした。

鈴木の往年の投球に陰りが出始めたころ、2人で「何かを変えないと、このまま終わってしまう」と話し合っていた。速球派としてプライドの高い鈴木は、悩みながらもなかなか変わろうとはしなかった。

有田 転機は突然に訪れました。ある年の春先の、確か藤井寺でのロッテ戦だったと思います。右打者に対しての外からのスライダーが、絶妙に決まりました。ボールゾーンからストライクコースに入る球です。意表を突かれ、バッターは手も足も出ませんでした。

名バッテリーはこの1球で、変化球の効果を再認識した。鈴木はその後フォークボールも覚え、技巧にも磨きを掛けた。77年20勝、78年には25勝と、鮮やかに復活。大投手への道を再び歩み始めた。

近鉄時代の有田を語る上で欠かせないのが、同じ捕手の梨田の存在である。梨田は72年入団で、プロでは有田の1年先輩。梨田は高卒だったため、年齢は有田が2歳上だった。

他球団なら全試合を任される能力の持ち主が2人もいる。「ありなしコンビ」と呼ばれ、オフにはトレードの申し込みが途切れることはなかった。リーグ連覇を果たした80年には、有田16本塁打、梨田15本塁打。最強捕手コンビで31本塁打をたたき出し、猛牛打線の一翼を担った。

有田 ナシ(梨田)のことをライバルだと思ったことは、1度もないんです。タイプが違いましたから。「ワシの言う通り投げんかい」というのが私です。ところがナシは、投手が首を振ったらわりとサインを変える。投げやすいように、やりやすいようにとリードしているように見えましたね。

有田は86年にトレードで巨人へ移籍。同年9月8日の大洋(現DeNA)戦8回2死一、三塁からセーフティースクイズを決め、一塁へ猛然とヘッドスライディング。微妙なタイミングとなり大洋が抗議する間に、三塁走者の吉村に続き一塁走者の岡崎まで生還するプレーとなった。「楽々セーフになると思ったけど、途中から足が進まなくなった。一塁へは夢中で飛び込んだよ」とは当時のコメント。観客がまばらだったパ・リーグで培ったド根性に、日本中のファンは息をのんだ。88年には4年ぶりの2桁となる12本塁打を放ち、カムバック賞を受賞した。

90年ダイエー(ソフトバンク)へ移り、91年に現役を退いた。ABCの野球解説では、試合の流れや選手心理を的確に読み断言する口調に人気が高い。近鉄、日本ハムを優勝に導き、楽天も率いた名将・梨田を、放送席からどう見ていたのだろう。苦笑交じりに返ってきたのは、こんな答えだった。

有田 日程の関係からか、実はあまりナシが監督をしていた球団の試合を見ていないんですよ。それはともかく…私も監督をやってみたかったなあ…。(敬称略)。

◆有田修三(ありた・しゅうぞう)1951年(昭26)9月27日生まれ、山口県出身。宇部商では3年夏に甲子園出場。長兄健三(小野田工)次兄哲三(宇部商)に続いての快挙だった。新日鉄八幡を経て72年ドラフト2位で近鉄入団。75、76年ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)受賞。79、80年の連覇に貢献し、広島との日本シリーズにも出場。79年第2戦では江夏豊からバックスクリーンへ本塁打も放った。86年に淡口憲治外野手、山岡勝投手との交換トレードで巨人へ移籍。88年には正捕手となりカムバック賞受賞。90年ダイエーに移籍し91年引退。現役時代は174センチ、80キロ。右投げ右打ち。引退後は阪神や近鉄でコーチを歴任したほか、ABCの野球解説者も務めている。

◆居酒屋有田 有田氏はABCプロ野球解説のかたわら、居酒屋を経営。近鉄時代のユニホームやプレー中の写真が店内の壁を飾っている。全国から野球ファンが訪れ、有田氏と野球談議を楽しんでいる。人気メニュー「ベーコンたっぷりもちピザ」(600円)はビールに最適だ。当面は金、土曜日の午後5時30分~9時の営業。大阪府羽曳野市南古市2の1の6。電話090・3848・3783。

○…日刊スポーツ評論家の梨田昌孝氏(67)がありなしコンビの思い出を回想。有田氏への感謝をつづった。

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有田さんは2学年上で山口の宇部商出身。私は島根の浜田で、西中国大会で顔を合わせたのが最初です。1年生の私はボールボーイでしたが、3年生の有田さんは構えも格好いいし、山口にはスゴい捕手がいる、と驚きました。近鉄入団は高卒の私が1年先。「しばらく、捕手は取らなくていいな」と評価をいただいていたところで、社会人出の有田さんが入団してきました。やっぱりプロは甘くない。ありなしコンビの誕生はまさかのまさかでした。

西本監督は投手によって2人を併用しました。スタメンを外れた時は、ベンチでひたすら配球の勉強です。自分なら次に何を投げさせるとか、ここにこの球を投げたら詰まってゲッツーとか、配球の根拠を探しました。ピンチになったら突然「ナシ、肩が強いから守りに行け」もありました。 とにかくライバルの有田さんに負けたくない一心で、打撃も良くしないといけない。西本さんへの意地もあったし、トレードに出されるかもしれないも覚悟も胸に、試行錯誤を重ねて生み出したのが“こんにゃく打法”でした。お互いDHや一塁でも出て、リーグ2連覇した80年は私が15本塁打で、有田さんが16本塁打。捕手2人で30本超えはすごい数字だと思います。

鈴木啓示さんの登板日は有田さんと組むことが多くなりました。ある時、鈴木さんが「すまんな」と食事に誘ってくれ、こんな話をしてくれました。「ナシは調子が悪くても“大丈夫ですよ”と気遣ってくれる。でもそれだとミットを見て燃えないんや。アリは“アンタ、こんなボールでよう20勝できたな”と言う。腹が立って燃えるんや」と。

投手を奮い立たせるのは捕手の大事な仕事です。有田さんは鈴木さんの4つ下ですが、そんなことが言える方でした。高校時代の出会いに始まり、多くを学び、大きく育てていただきました。有田さんがいたから、捕手梨田がありました。