「江夏の21球」の直前もう1つのドラマ「山口哲治の18球」/パ伝説

79年、ロッテ戦に登板する近鉄・山口

<復刻パ・リーグ伝説>/パ伝説

球史に輝く名場面「江夏の21球」で最終回の近鉄の攻撃を呼んだのが、若きリリーフエースだった山口哲治氏(62)。20歳だった79年に急成長し、防御率のタイトルを獲得。近鉄初優勝の立役者となった。同年の広島との日本シリーズ第7戦でも8回から救援登板。9回のマウンドでは「山口の18球」で広島に追加点を許さなかった。この好投から近鉄は、反撃態勢を整え、「1点差の9回裏、無死満塁」という最高の舞台へと突き進んでゆく。【取材・構成=高野勲】

   ◇   ◇   ◇

二度あることは三度あるのか、あるいは三度目の正直か。20歳の山口は、文字通り背水のマウンドに立っていた。79年11月4日。広島との日本シリーズは、3勝3敗で第7戦へともつれ込んでいた。3-4と1点ビハインドの8回、若きリリーフエースは大阪球場のマウンドへ向かい、まずは3者凡退で切り抜ける。そして9回、最後の守りがやってきた。

山口 広島で失敗を繰り返していましたからね。3度もやられたら完全に信用を失う、と必死でした。

6回に勝ち越し2ランを放った先頭の水沼四郎を、二塁ゴロに抑えた。続くライトルにはシュートを狙い打たれ、左前打を許す。投手の江夏豊には送りバントをさせず、空振り三振に。最後は、敵地広島で痛打を繰り返された高橋慶彦も空振り三振に仕留めた。この回の投球数18球だった。

山口 気持ちで負けたら終わりです。気合が入っていたんでしょうねえ。高橋さんを三振に取った後、マウンドの砂を蹴り上げたのを覚えていますよ。

山口の奮起で流れを引き寄せた近鉄はその裏、無死満塁の大チャンスをつかむ。ところが1死後、石渡茂がスクイズ失敗と三振で、目の前に迫っていた近鉄日本一は幻と消えた。雨の降りしきるグラウンドで猛牛ナインは、古葉竹識監督の胴上げをうつろな目で眺めるしかなかった。

プロ2年目の山口は、急成長を遂げていた。1年目の78年から自らに課した、徹底した鍛錬が実を結んだ。全体練習が午後3時に終わった後も、当時の本拠地藤井寺球場に居残り、コーチに約300球の個人ノックを頼んだ。当時まだ天然芝だった外野を1~2時間ランニング。最速が約10キロ伸びて143キロとなり、絶妙のコントロールで繰り出すシュートと相まって鬼に金棒となった。防御率2・49でタイトルを獲得。藤井寺はじめ、日生、後楽園などパ・リーグ球団は狭い球場ばかり使っていたことを考えると、驚異的な数字である。登板36試合中、先発わずか10試合ながら148イニング1/3と投げまくった。新人を除くと、前年までに1軍戦出場のない選手のタイトルホルダーはプロ野球初であった。

当時のパ・リーグは、前期と後期の2シーズン制だった。西本幸雄監督のもと、近鉄は前期を制覇。首脳陣は阪急の後期Vが濃厚と判断し、疲れの出た選手を休ませる策に出た。右手中指の爪を故障した山口は、屈伸や股割りなど下半身強化に専念。万全を期して、3戦先取のプレーオフへ臨んだ。南海の本拠地だった大阪球場を借りた1、2戦目に好投し、迎えた西宮での第3戦。同点の7回からマウンドへ。最後の打者簑田浩二を全球シュートで三振に取り、チームは悲願のリーグ優勝を遂げる。1勝2セーブの山口は、プレーオフのMVPを受賞した。

パ優勝決定は10月16日、日本シリーズ開幕は同27日。徹底した自己管理と猛練習で歩んできた若者に、微妙な変化が起こっていた。

山口 プレーオフが終わると、私は時の人になってしまいました。絶えずカメラを向けられ、練習を終えるや否や記者の方々から囲まれました。さすがに気持ちは落ち着きません。日本シリーズでチームは、大阪市内のホテルで合宿しました。日々行ってきた、藤井寺での練習ができなくなってしまったんです。

不安な思いを抱えたまま、日本シリーズを迎えた。近鉄は大阪球場での第1、2戦を井本隆、鈴木啓示の完投でものにする。広島に移っての第3戦で、ようやく出番が巡ってきた。1点リードを追いつかれた7回1死一、二塁。高橋慶彦に安打を浴びたが、二塁走者の萩原康弘が走塁死し難を逃れたかに見えた。ところが続くギャレットに中前打を喫し、逆転負けした。

翌日の第4戦では1点ビハインドの7回2死三塁。打席に高橋慶を迎えたところでマウンドに行くと、西本監督から念を押された。「初球は膝元の、ボールになるスライダーから入れ」。言われた通りの球を投げたら、見透かされたように右翼席へと運ばれた。鮮やかな前さばきで、ストライクゾーンを外れる直前の一撃だった。三塁側ベンチ裏で、闘将から怒鳴りあげられたのは言うまでもない。

公式戦からプレーオフまで獅子奮迅の働きを見せたものの、日本シリーズでは精彩を欠いていた。だが、二度あったことは、三度はなかった。第7戦で仮に山口が1点でも失っていれば、9回裏の「最少得点差で無死満塁」という、あまりにも劇的な舞台はなかったことになる。やられたら、やり返す-。20歳の山口は強烈な反骨心で役割を全うし、プロ野球屈指の大舞台を整えたのだった。(敬称略)

 

■タフィー・ローズとバット投げの応酬

その後の山口は、波乱の野球人生を送った。脊椎分離症など故障に悩まされ、85年限りで南海へトレード。交換相手の新井宏昌が通算2038安打を記録したのとは対照的に、88年オフ自由契約となった。89年には阪神で、90年からは古巣近鉄で打撃投手を務めた。96年に来日したタフィー・ローズに投げたときには、打てないイライラからバットを投げつけられたこともあったという。「ストライクゾーンに投げとるわ。打てないお前が悪いんじゃ」とバットを投げ返した。反骨心は健在だった。

05年からは新生楽天のスタッフに。13年にチームは初優勝。日本シリーズでは巨人を倒し、球界の頂点に立った。20歳のときには味わうことのできなかった歓喜を、スタンドで見届けた。「これが日本一か。自分で投げていたら、どれだけうれしかったやろう」。ありったけの力を振り絞ったあの18球から、34年の月日が流れていた。

 

◆江夏の21球 79年の日本シリーズ第7戦、1点を追う近鉄は9回裏を迎えた。広島のリリーフエース江夏豊から、先頭の羽田耕一が中前打で出塁。次打者アーノルドのとき、代走の藤瀬史朗が二塁へ走り、送球がそれる間に三塁へ進んだ。アーノルドが四球で歩き、続く平野光泰のときに代走吹石徳一が二盗。平野敬遠で無死満塁と、近鉄に絶好のサヨナラ機が訪れる。山口の代打佐々木恭介は三振で1死。続く石渡茂の2球目に、近鉄はスクイズを敢行した。これを察知した広島バッテリーが外角へ大きく外し、藤瀬は三本間で憤死。石渡は空振り三振に倒れ、広島の日本一が決まった。

◆山口哲治(やまぐち・てつじ)1959年(昭34)4月17日生まれ、奈良県出身。智弁学園では2年春、3年春夏と甲子園に出場し、最高成績は3年春の準決勝進出。77年ドラフト2位で近鉄入団。88年引退。通算136試合、16勝13敗12セーブ、防御率3・75。現役時代は186センチ、85キロ。右投げ右打ち。88年阪神、90~96年近鉄で打撃投手。97~98、04年近鉄2軍コーチ。楽天が発足した05年から、球団職員としてスコアラーなどを担当。今年から福井工大福井にコーチとして赴任した。