コロナと故障と闘った松坂大輔 自分を見つめ直し周囲思った最後の決断

20年6月、中日戦で力投する西武松坂

<とっておきメモ>

西武松坂大輔投手(40)が7日、今季限りでの現役引退を球団を通じて発表した。

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14年ぶりに復帰した西武への思いは特別だった。ここで投げることは、松坂にとって野球人生の集大成。メジャーから日本に戻ってソフトバンク、中日を渡り歩いた。中日1年目の18年に6勝を挙げて復活の兆しが見えたが、翌年の年賀メールには「復活という言葉は今年のシーズンオフに使いたい」と、まだまだ続きがあることと示唆していた。

20年3月16日付の本紙。再び西武のユニホームに袖を通した松坂が、オープン戦の最終登板でヤクルト村上を空振り三振に仕留めた記事が掲載された。覚え立ての「スプリットチェンジ」がよく落ちた。久々に連絡を入れると「もう少し改良が必要ですが実戦で使えるようにしたいです」と返ってきた。1週間後のシーズン開幕カードでの先発も内定し、調整は順調だった。

新型コロナウイルスが日本でも猛威を振るい始め状況は一変した。プロ野球も開幕延期となった。松坂先発の機会も白紙となった。妻と子ども3人をボストンに残して単身生活を送る毎日。ワクチンが普及した今でこそ収束傾向にあるが、現在まで世界で最も多い死者60万人を出すなど米国社会は混乱の渦にあった。

「ニューヨークほどではありませんがボストンも公園が閉鎖されたり自粛、警戒レベルが上がり、かなり不自由な状況ですが家族は今のところ元気です」

その後は指のしびれ、頸椎(けいつい)手術と大きな故障も重なった。孤独な闘いを続けた2年だった。

気さくな性格で家族、友人、報道陣も大切にする人間くささを感じた。ボストンに家を構えた07年以降、レッドソックスの本拠地フェンウェイパークや自宅には、高校時代の同級生、知人が次々と訪れた。「あいつは控えの子とよくつるんでいた。面倒見がいいんだ」。恩師小倉清一郎さん(77=当時横浜高校野球部長)は松坂のおおらかな性格をこう表現する。ベンチ入りできなかった同級生からは「社会人になった今でも松坂を誇りにして生きている。だからボストンまで来て応援したいんです」という声も聞かれた。

10年3月29日、野球担当を離れて帰国する前夜、キャンプ地フロリダの自宅に招いていただいた。全米を一緒に転戦する報道陣を「仲間」として接してくれた。メジャー初年度15勝、2年目18勝、09年3月のWBCでMVPに輝いた3年目は肘の痛みに泣いて4勝に終わった。渡米から4年目の春。投手としての変革が求められるターニングポイントを迎えていた。

これからどういうピッチャーになるのか-。

最後の質問の答えは、ためらった様子で1分近い間があった。

「今でもキャッチャーミットを突き破って審判も押し倒すような球を投げたい。でも今は難しいことも自覚しています」

甲子園での春夏連覇、プロの強打者も次々となぎ倒した真っすぐへのこだわりがうかがえた。強く、しなやかに右腕を体に巻き付けるように振り下ろしたい。まだ当時30歳。苦渋の表情が浮かび上がった。11年にトミー・ジョン手術を受けたのも、もう1度剛腕を取り戻すための一歩だった。

「日本に帰ったら家族を大切にしてください」。帰り際、新しい部署に異動する記者を励ましてくれた。寂しい。最後の決断は、自分自身を見つめ直し、家族や西武球団、周囲を思ってのものだと感じた。【00~02年西武担当、07~10年メジャー担当=山内崇章】