松坂大輔、引退一番の理由「右手のしびれ 感覚なくボール抜け」引退会見1

引退会見する西武松坂

平成の怪物が19日、埼玉・所沢で引退会見に臨んだ。99年に西武でプロ入りし、メジャーを経て、ソフトバンク、中日、そして再び西武復帰と23年間歩み続けたプロ生活に終止符を打った。引退決断に至った理由、家族への感謝、松坂世代への思いを、惜しむことなく語り尽くした。涙を流す場面もあった。また引退試合として、この日の日本ハム戦(メットライフドーム)で先発。現役生活に別れを告げる。

-今の率直な気持ちは

選手は誰しもが、長くプレーしたいという思い。こういう日がなるべく来ないことを願っていると思うんですけど。何か今日という日が、来てほしいような来てほしくなかったような、そんな思いがあったんですけど。うん、現時点ではまだすっきりしていないんですよね。この後に投げることにもなってますし、投げることができて、そこで自分の気持ちもすっきりするのかなと。すっきりしたいなと。

-来てほしいという理由は

今の自分の体の状態のこともありますし、やっぱり続けるのは難しいと思っていたので。早くできるだけ早く、皆さんの前に出てきて報告できれば良かったんですけど。7月7日に引退発表があって、当初球団とは、すぐに会見を準備してもらう予定だったんですけど。僕自身が発表したものの、なかなか受け入れられなかった。気持ちが揺れ動いているというか。球団に待ってと言って、だいぶ(時間が)たってしまったんですけど。発表してからやれそうだなと思った日は1度もなかった。なのでなるべく早く終わらせられたらいいんだろうなと思っていた。

-引退決断の一番の要因は

右手のしびれ。昨年の春先に右のしびれが強く出ることがあって、その中でも何とか投げることができたんですけど。コロナ禍の中で、緊急事態宣言があってトレーニングも治療もままならなくなる中で症状が悪化して。できれば手術は受けたくなかったんですけど、本当にもう毎日のように首の痛みや、しびれで寝られない日々が続いて、精神的にもまいってしまったのもあって手術を決断したんですけど。これまで時間をかけてリハビリをしてきましたけど、なかなか症状が改善しなかった。その中でもキャンプが始まって、もうそろそろ打撃投手をやって、ファームの試合に投げられそうだね、というところまできた。そんな話をした矢先に、ブルペンでの投球練習の中で何の前触れもなく、右打者の頭のほうにボールが抜けたんですね。それがちょっと抜けたんではなく、とんでもない抜け方をして。そういう時投手って、抜けそうだなと思えば指先の感覚で引っかけたりするんですけど、それができないぐらい感覚がなかった。そのたった1球でボールを投げることが怖くなってしまった。そんな経験はなかったので、自分の中でショックがすごく大きくて。松井2軍監督に相談して。ちょっと時間をくださいとお願いしたんですけど。時間をもらったんですけど、しびれが改善しなかったので。これはもう投げるのは無理だなと。辞めなければいけないと、自分に言い聞かせた感じですね。

-決意が固まった時期は

球団に報告する1週間前ぐらい。球団にお願いして休ませてもらったのが5月の頭ぐらいだった。2カ月ぐらい考えて悩んで。その中でも治療を受けにいって何とか投げられるようになればと思ったが、変わらずに時間ももうないなと。

-その間に誰かに相談は

もう難しいかもしれないという話は少しした。

-家族の反応は。

だから会見したくなかったんですよね。ちょうど辞めるとなった時に妻に電話したんですけど、本当に長い間お疲れさまでしたと言ってもらいましたし、僕の方からもありがとうと伝えさせてもらいました。

-こみ上げてきたものは家族への支えへの感謝か

ひと言で感謝と言ってしまえば簡単だけど。いい思いもさせられたかもしれないけど、家族は家族なりに我慢というかストレスもあったと思う。本当に長い間我慢してくれたなと思う。

-一番感謝を伝えたい人は

一番…。妻もそうですし両親もそうですし。これまで自分の野球人生に関わっていただいた方へ感謝します。

-今後は。

そうですね、家族と過ごす時間を増やしながら、違ったところで。野球以外にも興味のあることはたくさんある。そういうことにもチャレンジしていきたい。野球界、スポーツ界に恩返しできる形をつくっていけたらいいなと思う。

-この23年間はどういう時間だった

長くプレーさせてもらいましたけど半分以上は故障との闘いだったと思う。最初の10年があったからここまでやらせてもらえたと思っている。僕みたいな人はなかなかいないんじゃないですかね。一番良い思いと、自分で言うのもなんですけど、どん底も同じぐらい経験した選手はいないかもしれない。

-自身から見た松坂大輔投手の評価は

長くやった割には、と思います。通算勝利数も170を積み重ねてきましたけど、ほぼ最初の10年でやってきた数字。自分のその肩の状態とか良くはなかったですけど、そこからさらに上乗せができると思っていましたね。

-自身で褒めてあげたいところは

諦めの悪さを褒めてやりたい。選手生活の後半は、うん、まあたたかれることの方が多かったですけど。それでも諦めずに、自分自身苦しかったですけど、迷惑かけましたけど、よくやってきたと思います。最後はもう、たたかれたり批判されることに対して、それを力に変えてはね返してやろうとやってきました。でも最後はそれに耐えられなかったですね。もう。心が折れたというか、今まではエネルギーに変えられたものが、受け止めて投げ返す力はなかったですね。

-最も印象に残っている試合は

そういう質問されるだろうなと思って、いろいろ考えたんですけど、ベストピッチだったり、ベストゲームだったり、いろいろありすぎて、なかなかこの試合、この1球と決めるのは難しいですね。もう。見て感じるものだったり、記憶に残るものって、人それぞれ違うと思うので、何かをきっかけに松坂あんなボール投げていたな、あのバッターと対戦したな、あんなゲームあったなと思い出してくれればいい。

-18番への思い

小さい頃にプロ野球を見始めて、ほぼ巨人戦しかやってなかったんですけど、その試合含めて桑田さんの背番号18がやっぱりものすごくかっこよく見えて、当時はエースナンバーと知らなかったけど、やっぱり最初に受けた衝撃がそのまま残っていたというんですかね。だからエースナンバーと知る前から、プロに入ってピッチャーをやるなら18番つけたいと思ってやっていましたし。18という数字にこだわってきたというか、周りにいいかげんにしろと言われるぐらい何でも18、1と8をつけたかった自分がいましたね。最後に背番号変わることになりましたけど、最後にまた18番をつけさせてくれた球団には感謝したいです

-最後、マウンドでどんな姿を

本当は投げたくなかったですね。今の体の状態もあるし、この状態でどこまで投げられるのかというのもありましたし、もうこれ以上、だめな姿は見せちゃいけないと思っていたんですけど、引退をたくさんの方に報告させてもらいましたけど、やっぱり最後ユニホーム姿でマウンドに立っている松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいたので、もうどうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後全部さらけ出して見てもらおうと思いました。

-松坂選手にとって野球とは

気の利いたこと言えたらいいんですけどね。5歳ぐらいから始めて35年以上になりますけど、まあほぼ生きた僕の人生そのものだと言えますし、その中で本当にたくさんの方々に出会えて、助けてもらってここまで生かされてきたと思います。本当に皆さんに感謝しています。その思いを含めて、何球投げられるか分からないですけど最後のマウンドにいきたいと思います。

 

◆松坂大輔(まつざか・だいすけ)1980年(昭55)9月13日生まれ、東京都出身。横浜で98年甲子園春夏連覇。同年ドラフト1位で西武入団。1年目の99年に16勝で新人王に輝き、同年から3年連続最多勝。07年にレッドソックス移籍。インディアンス、メッツを経て15年ソフトバンク入団。18年中日に移籍し、20年に西武復帰。主な表彰は最優秀防御率2度、最多奪三振4度、01年沢村賞、18年カムバック賞。00年シドニー五輪、04年アテネ五輪、06、09年WBC日本代表。182センチ、92キロ。右投げ右打ち。

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