松坂大輔、心残りは「東尾さんに200勝してお返ししたかった」引退会見2

引退会見で涙ぐむ西武松坂

引退会見に臨んだ西武松坂大輔投手(41)。23年間に及んだ選手生活、後半はけがとの戦いだった。右肩、右肘、昨年7月には頸椎(けいつい)を手術。日米で優勝を経験し、WBCでは世界一も達成。日米通算170勝を挙げるなど栄光の一方で、挫折を味わった思いを語った。

-野球への思いが揺らいだとき

これは僕だけじゃなくて、けがをしている選手、けがで乗り越えられない選手がいると思うんですけど、その瞬間はすごく苦しいんですよね。周りの方が思っている以上に。僕の場合は野球を始めた頃から変わらない野球の楽しさ、野球が好きだというのをその都度思い出して何とかその気持ちが消えないようにと戦っていた時期はありますね。どんなに落ち込んでも最後にはやっぱり野球が好きだ、まだ続けたい。もう後半はぎりぎりのところでやっていたなって思いますね。いつその気持ちが切れても、おかしくなかったなって思います。

-今でも野球が好きか

そうですね。好きなまま終われてよかったです。はい。

-やめるきっかけとなったブルペンはいつ

4月の終わりの方だったと思いますね。ゴールデンウイーク前ぐらいから休ませてもらったので。

-自信を持って投げられたのはいつが最後か

2008年ぐらいですかね。今でも忘れないというか、細かい日付は覚えていないんですけど、2008年の5月か6月か、調べたらすぐ分かると思うんですけど、チームがオークランドに遠征中で、その前の試合に投げてオークランドで登板間のブルペンの日だったんですけど。ロッカールームからブルペンに向かう途中で足を滑らせてしまって、とっさになにつかんだのかな? ポールのようなものをつかんだんですけど、その時に右肩を痛めてしまって、そのシーズンは大丈夫だったんですけど、そのシーズンオフからいつもの肩の状態じゃないと思いだして。そこからは肩の状態を維持するのに必死でしたね。僕のフォームが大きく変わり始めたのは2009年くらいだと思うんですけど。その頃には、痛くない投げ方、痛みが出ても投げられる投げ方を探し始めたというんですかね。だからもうそのときには自分が求めるボールは投げられていなかったですね。それからは、その時その時の最善策を見つける、その作業をしていました。

-松坂世代といわれた同世代への思い

いい仲間に恵まれた世代だったなと思いますね。本当にみんな仲良かったですし、言葉に出さなくても分かり合えることはありましたし、松坂世代って名前がついていましたけど、うん…、自分は松坂世代と言われることはあまり好きではなかったんですけど、僕の周りの同世代、みんながそれを嫌がらなかったおかげでついてきてくれたというとおこがましいかもしれないですけど、そんなみんながいたから、先頭を走ってくることができたというんですかね。まあ、でも、みんなの接し方がありがたかったなって思いますね。それと同時に自分の名前がつく以上、その世代のトップでなければならないって思ってやってきましたけど。それがあったから諦めずにここまでやってこられたかなと思いますし、最後の1人になった(ソフトバンク和田)毅にはですね、僕の前にやめていった選手たちが僕らに託していったように、まだまだ投げたかった僕の分も毅には投げ続けていってほしいなと思います。できるだけ長くやってほしいと思います。同世代の仲間に感謝しています。

-プロとしてマウンドで心掛けてきたこと

23年間、あまりこう自分の状態が良くなくて、投げたくないな、できれば代わってもらいたいなと思う時期もあったんですけど、やっぱり最後は逃げない、立ち向かう、どの自分もすべて受け入れる、自分に不利な状況をはね返してやる、試合のマウンドに立つその瞬間には必ず気持ちを持って立つようにしていました。ぎりぎりまで嫌だなと思っていたこともありましたけどね、でも立つときにはその覚悟を持ってマウンドに立つようにしていました。

-大舞台で力を発揮するために子どもたちへ言葉

国際大会とか試合によっては苦しい状況もあったんですけど、このマウンドに立てる自分がかっこいいと思ってましたね。まあ思うようにしていた。他の投手に任せた方がいいということもあったかもしれないですけど、大きな舞台、目立てる舞台に立てる自分がかっこいいと思うようにしてたんじゃないですかね。毎回勝てたわけじゃないですけど。もちろん痛い思いをしたこともありましたけど、そういう舞台に立てるのはかっこいいと思ったので、みんなにはそういう舞台に積極的に立ってもらいたいなって思いますね。

-やり残したことや心残りは

やっぱりあの、ライオンズに入団したときに東尾さんに200勝のボールをいただいたので、自分自身が200勝して、お返ししたかったなと思いましたね。やっぱり一番思いますかね。ボールは。ちゃんと持っていますよ(笑い)

-今の自分に声をかけるとしたら

もう十分やったじゃんと、長い間お疲れさまって。うん、言いたいですね。はい。

-野球やめるにあたって子供からの言葉

家族も僕の体の状態を分かっていましたし、実際にやめるよと言う前にも、もうそろそろ、こうやめるかもねって、話をしたときは喜んでいたんですけどね。子供たちは遊ぶ時間が増える、うれしいと言っていたんですけど、実際にやめるって報告した時は、みんな泣いていたんで。「やったー、お疲れさま」と言われるかなと思っていたんですけど、みんなしばらく泣いていたんで、僕には分からない感情を妻や子供たちはもったのかもしれないですね。それを知って改めて感謝の気持ちと同時に申し訳なかったっていう気持ちがありましたね。あんまり家族のこと言いたくないですし、言わないようにはしてきたんですけど、妻と結婚してもらう時も批判の声だったり、たたかれることもたくさんあると思うけど、自分が守っていくからと言って結婚してもらったんですけど。今思うと、それができなくて、本当に申し訳なかったなと思います…ね。妻は本当に関係ないところでたたかれることもあって、本当に大変だったと思いますし、そんなに気持ちの強い人ではなかったので、迷惑掛けたと思いますし、その中でここまでサポートしてくれて本当にありがとうございましたと改めて言いたいですね。

-家族と今後一緒にやりたいこと

最近家の庭で野菜を育てたりしているんで、そういうことはみんなでやってみたかった。やっていきたいと思いますね。そういうたいしたことじゃないかもしれないですけど、そういうことをさせてあげられなかったので、これからはそういう時間を増やしていきたいなと思います。

-「諦めの悪さをほめてあげたい」。その原動力は

全てがそういうわけではないですけど、諦めなければ最後報われると、それをこう強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね。今質問されてパッとその試合がでてきたので、あの試合があったからですかね。最後まで諦めなければ報われる。勝てる。喜べる。あの試合が原点なのかなと思いますね。諦めの悪さの原点ですね。

 

◆松坂大輔(まつざか・だいすけ)1980年(昭55)9月13日生まれ、東京都出身。横浜で98年甲子園春夏連覇。同年ドラフト1位で西武入団。1年目の99年に16勝で新人王に輝き、同年から3年連続最多勝。07年にレッドソックス移籍。インディアンス、メッツを経て15年ソフトバンク入団。18年中日に移籍し、20年に西武復帰。主な表彰は最優秀防御率2度、最多奪三振4度、01年沢村賞、18年カムバック賞。00年シドニー五輪、04年アテネ五輪、06、09年WBC日本代表。182センチ、92キロ。右投げ右打ち。

 

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