“虎のビッグボス”はフランス野球の父であり、日本サッカーの父だった/吉田義男氏編1

85年11月2日、日本シリーズ第6戦 西武対阪神 悲願の日本一を飾りナインに胴上げされる吉田監督

日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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「天国」と「地獄」を行き交った。阪神タイガースの長い歴史で過去3度の監督に就いたのは、この男しかいない。吉田義男-。名門チームの球団体質は独特で、お家騒動は年中行事だった。熱狂的なファンが存在し、当時は激しく執拗(しつよう)な取材攻勢も浴びた。それが阪神監督の宿命でもあった。まさに勝てば官軍、負ければ賊軍。結果がすべての世界で偉業を成し遂げた。

1985年(昭60)、21年ぶりのリーグ優勝、日本一の頂点に立つ。バブル景気の入り口だった年に全国で起きた虎フィーバーは、社会現象になった。その“みこし”に乗ったのが、よっさんこと、吉田だった。

球団史上、唯一の日本一監督。異色の球歴は、阪神監督の座を追われた後の89年から渡欧し、7シーズンにわたってフランス・ナショナルチーム監督として五輪出場を目指した実績の持ち主であることだろう。

プロ野球出身者で、吉田ほど外国チームと対戦した人物は見当たらない。監督として仏代表チームを率い、欧州をはじめアジア、中南米など約30カ国・地域で試合を戦った、日本球界きっての国際派といえる。

ほとんど知られていないのは、吉田が野球だけでなく、日本サッカー界の発展にも多大な貢献をしていることだ。昨年の東京五輪選手村の村長で、日本サッカー協会(JFA)相談役の川淵三郎は、今もその恩を忘れていなかった。

「吉田さんには本当に感謝してるんだ。日本サッカー協会はドイツとつながりがあっても、フランスとはまったく交流がなかった。協会対連盟という組織同士で、関係ができたのは大きかった。また後々、両国間のサッカーは提携国として結ばれた。それは吉田さんがつないでくれた縁であるのは間違いなかった」

吉田は92年野球殿堂入りしたパーティーの席上、Jリーグ初代チェアマンに就いたばかりの川淵を招いた壇上から祝辞のスピーチを受ける。その前に貴乃花の宴席であいさつを交わしたのが初対面で、2人は距離を縮めていく。

川淵も大阪出身で、阪神ファン。「三宅-吉田の三遊間は鉄壁で、よっさんといえば超のつくスーパースター」。その吉田から仏サッカー連盟・ベルベック副会長、エノー専務理事ら重鎮を紹介されたのは、日本サッカー界の転機だった。

吉田の橋渡しは98年に誕生したフランス人のフィリップ・トルシエ日本代表監督、日韓W杯開催にもつながった。当時、強化委員長だった川淵は「トルシエの招請は成功だった」と経緯を明かした。「本当は(アーセン)ベンゲルに狙いを定めたが、アーセナルで地位を築いていたし、彼が興味をもっていたのは確かだがタイミングが合わなかったんだ」。

現在もフランス国内では「吉田チャレンジ」と銘打たれた野球の国際大会が開催されている。「ムッシュ吉田はフランス野球の父だよ」とうなずく川淵は、リーダーに求められる条件について言及する。

「ただ頑張れだけで組織は引っ張れない。いかに方向性を示し、具体的な柱を明確にし、それを理解させる。訴求力というか、吉田さんは選手の気持ちを引き出し、個の力を発揮させたということだろう」

“牛若丸”と称され、監督として個性の塊を戦う集団に束ねて勝った。「監督とは?」と問い掛けられた吉田は「わたしはどちらかというと職人。伝統の阪神には常に強くあってほしい。監督は歴史の一コマに過ぎない」と謙遜した。

今回の取材では、吉田と川淵をつないだ人物にも会った。ある日、総理の椅子を狙う大臣たちのパトロンで、永田町を激震させた政官、芸能界に顔の利いたその人を、シェラトン都ホテル大阪のティールームで待った。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。