10年ほど前だった。大手の広告代理店から野球イベントの出演依頼があった。規模、スポンサー、そして出演料と文句のないオファーだった。都内の喫茶店で説明を聞き終えた兆治さんは、即決で出演を断った。「時間がない」が理由だった。「ユニホームを着て、マウンドで投げるには体作りから始まって準備がある。このイベントの開催日には調整が間に合わない」と言った。この時点でイベント開催日まで約3週間があったにもかかわらず、だ。もう還暦を過ぎていた時に。
イベント出演、始球式と引退後も年齢を感じさせない球速を披露。「50歳を過ぎて何キロが出る?」が注目されることは分かっている。1球にも準備を重ね、手を抜かない、いや抜けなかった。「そこそこ」「それなり」ができなかった。89年に通算200勝達成を控え、取材したご家族は「昭和生まれの明治男ですから」とその頑固で、あまりにストイックな姿を笑って話していた。
右肘トミー・ジョン手術から復活した先駆けになった。同じ手術を受け、悩む多くの投手が先駆者の話を聞きに来た。「(医師に)大丈夫と言われても、怖くて最後の(全力投球へ)踏ん切りがつかない」という投手に、「痛いんだよ。決まってるだろう。1球投げるごとに指先までビリビリ痛む。投げたいと思えば、我慢するんだよ」。その痛みを自ら口に、いい訳にしたことはない。消炎剤、痛み止めなどの副作用か、現役終盤は唇の周囲には多くの吹き出物が痛みを代弁していた。
明治男が顔をくしゃくしゃにしたことがあった。「王さんから投手コーチの打診を受けたよ」。喜びは我慢はできなかった。まだ夏。王貞治氏の去就のウワサが全く出ていない時期。“極秘事項”をうれしそうに話した(その後、「王ダイエー監督」は日刊スポーツのスクープになったが…)。
サインには「人生先発完投」を添えてきた。順風満帆の野球人生ではなかったが、まさかの「降板」にはなってしまった。【88、89年ロッテ担当=井元秀治】