あれは1990年8月末だった。当時、プロ野球の遊軍記者だった私は、ゲームのないロッテの本拠地・川崎球場にいた。狙いは「村田兆治引退」のニュースだった。このシーズンもすでに2ケタ近い勝ち星をあげてはいた。だが、こだわり続ける「先発完投」が激減していたことから、あの性格ならやめるのでは、と思ったからだ。
調整練習を終えた兆治さんと、ようやく2人きりになれたのは駐車場で愛車に乗り込む寸前だった。
「どうした? 三浦」の問いかけに「はっきり言います。兆治さんの引退を書くつもりで来ました」と返した。
「そうか。お前、書く自信はあるか?」と聞かれ、焦りながら「あるからここにいます」と返した。
「わかった。ならあとはお前に任せる。じゃあな」とだけ言って走り去った。
翌日の1面で「村田兆治引退」が掲載された。朝早く、その紙面を抱えて自宅のある成城に向かった。「このように書かせてもらいました」と新聞を差し出した。
読み終えた兆治さんはニャッと笑った。「よし、これでいいよ。お疲れさんだったな」。それだけのやりとりだったが、これこそが村田兆治たるゆえんなんだな、と強く感じたことを思い出す。
86年シーズン、ロッテの番記者を務めた。打は落合、投は村田が大看板だった。近寄りがたい雰囲気を醸し出しながらも、飛び込むほどに胸襟を開いてくれた。ブルペンでの投球練習の際には「ちょっと立ってみるか?」と言って、打席に入れてくれたりもした。いったん心を開けば、どんな時でも真正面から受け止める。4年たっても、相変わらず真っ正直で一本気な兆治さんがそこにいた。
引退後は、兆治さんが提唱者となった「全国離島交流中学生野球大会(離島甲子園)」の運営なども手伝わせてもらうなど、長いお付き合いをさせてもらった。
今年8月25日には、私が住んでいる佐渡島(新潟)で開催された離島甲子園大会のために来島した兆治さんと久々に会うことができた。
羽田空港での暴行容疑によって逮捕された後の10月1日には、突然の電話がかかってきた。保安検査所の女性係官への謝意や、暴行の意図はなかったことなどやりきれない気持ちばかりが伝わってきた。その最後の方だった。「自分も年をくってきたし、そろそろ今の家を処分して、マンション暮らしを始めることを考えているんだよ」。
それなのに、こんな最期になってしまうなんて。合掌。【三浦基裕】