<阪神9-2巨人>◇1日◇甲子園
阪神初代日本一監督の吉田義男氏(91=日刊スポーツ客員評論家)が甲子園球場開場100周年に際し、本紙に特別寄稿した。始球式に招かれたレジェンドは「甲子園は人生そのもの。永遠であってほしい」と願った。【聞き手=寺尾博和】
◇ ◇ ◇
甲子園のメモリアルデーにマウンドに立てるとは、思ってもいなかった。長生きしたかいがあります。しかも“伝統の一戦”です。胸が熱くなった。少し前からノーバウンドのつもりで投げたが、ちょっとそれた。ごめんなさい。
わたしの自宅の応接間には、今も“甲子園の土”が飾ってあります。1950年(昭25)、夏の甲子園大会に山城高(京都)の「1番ショート」で出場し、北海高(北海道)に3-5で敗れた試合後にかき集めたものです。
その土が、吉田と甲子園、そして阪神をつないでくれた。太平洋戦争で大鉄傘が供出されて取り外され、内野にジュラルミン製の銀傘が復活するのは翌51年でした。なんと広いのかと思ったし、打っても、守っても、まぶしくて真っ白だった覚えがあります。
山城に編入する前の48年は、学生改革で廃校になる京都二商に在籍。第1回大会になる春のセンバツを経験したのが15歳で、決勝の京都一商戦をベンチ入りしない補欠としてスタンドで応援しました。いわゆる伝説の“京都対決”です。
戦前から盛んだった中等野球は「高校野球」に名を変えます。立命大を経て、阪神タイガースで現役生活17年、3度の監督を計8シーズン務めて、今もネット裏から古巣をみている。甲子園との付き合いは76年、甲子園は人生そのものといっても過言ではない。
甲子園は野手を育てる厳しい球場です。新人で38失策、2年目が30失策で、ベンチに帰ると先輩から「何しとるんや!」と叱られた。昔はもっと海が近くにあった。試合後、いわし、イカ釣りに出かけたものだが、今より風が強かった。特に銀傘より上に上がったフライは浜風で急に行方を変えるから、目を離すと落球しかねませんでした。
ファンブルも、トンネルもした。下手なわたしがそれなりに育ったのは、監督の松木謙治郎さんが使い続けてくれたおかげです。人間は失敗して成長します。体が小さいので、バットを振らないと寝つけず、いかに捕ってから早く投げるかにこだわった。
でも名物グラウンドキーパーで「じいやん」こと藤本治一郎さんが「きょうのグラウンドはどうやったか?」と気遣ってくれた。今のようにイニングの合間に整備が入ることはなかったので、「鏡の如し」といって整地に心血を注いだのは伝説です。
わたしの監督生活で印象深いのは、なんといっても1985年のバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発です。今も語り継がれるのは、舞台が甲子園だったから。そういえばラッキーゾーンに観客を入れたこともありました。
浜風が吹く球場は、左打者には不利と言われますが、掛布とバースは本塁王のタイトルを獲得しました。それはラッキーゾーンがあったからではなく、左右に打ち分ける技術を身につけたからに他なりません。
戦争も、震災も乗り越えた“聖地”は、これからもリニューアルを重ねながら有り続ける。甲子園は永遠に不滅だ。黒土、芝、浜風、ツタには、ずっと変わらずにいてほしい。そして先人が紡いだ伝統の継承にこだわり、大切にしたい。それが阪神で育ったわたしの強い願いです。
おめでとう甲子園、ありがとう甲子園…。