南海(現ソフトバンク)の投手として活躍した宅和本司さんが4日に大阪市内の病院で肺炎のため死去した。89歳だった。葬儀は近親者で営まれた。
宅和さんは南海で1954年、高卒新人ながら26勝を挙げて最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得。同年、同じ高卒ルーキーで20勝をあげた梶本隆夫(元阪急)を抑えて新人王にもなった。翌55年も58試合に登板し、24勝を挙げてリーグ優勝に貢献。同期には野村克也、皆川睦雄がいた。引退後はサラリーマン生活をするとともに、毎日放送で野球解説者を担当。ソフトな語り口で関西の野球ファンから親しまれた。
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最後に宅和さんに会ったのは、3年前の21年1月のことだ。「千日前(大阪)の地下街に着いたら電話してこい」。「長い商店街ですが、なんという店ですか?」「いいんだ。とにかくそのへんに来たら連絡しろよ」。コロナ禍の合間のやりとりで、電話をかけると、大阪・ミナミの主だった宅和さんは、5分もたたずに現れた。
1年目の広島・呉キャンプ序盤から風邪をひいて大部屋から隔離され、加湿器代わりに、お湯を沸かして静養することになった。
ただ出遅れた新人が鶴岡一人監督の目に留まるのに時間は掛からなかった。大阪・初芝にあった寮では、同期の野村克也さんと同部屋だった。宅和さんは「野村はキャッチングが下手でな。でも『タク(宅和)速いな』と言われたよ。『野球ってエエな』と語り合ったこともあったな」。
宅和さんの訃報を受けた、当時マネジャーの梶田睦さん(93)は「うちで球が速かったのは、下手なら杉浦、上手なら宅和だった。球速150キロ? そんなんで利かんよ。あの中西太さん、大下弘さんらが舌を巻いたんだ」と語った。
新人の26勝(9敗)はパ・リーグ史上、杉浦忠さんの27勝に次ぐ歴代2位タイ。宅和さんは「おれは手が小さいから球種が少なく、ストレートとカーブの2つ。シュートは自然といったんだ」となつかしんだ表情が目に浮かんだ。
はかないプロ野球人生と思ったら、本人は首を横に振った。「新聞にはこき使ってと書かれた。でも“親分”が喜んでくれると思ったら、おれはそれで良かったんだ」。名門南海ホークスで短命だった大投手は、名将鶴岡に忠義を尽くしたのだった。【元南海、ダイエー担当・寺尾博和】