<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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長い記者生活で、鳥肌が立つ瞬間はあっても、それが夜中まで引き切らないのは初めてだった。ロサンゼルス・ドジャースのレイズ戦で信じられない光景に遭遇した。大谷翔平の「40本塁打&40盗塁」を目の当たりにした夜のことだ。
9回に初球をフルスイングすると、ファンは総立ちになって「入るか? 入るか?」と打球はフェンス越え。自身初のサヨナラ本塁打がグランドスラム。もはや漫画の世界も越えている。監督ロバーツが「おとぎ話のようだ」と語ったのは偽らざる気持ちだろう。
しかも、その前には40個目の盗塁に成功した。テレビではわからないが、生でみる大谷の“ピッチ&ストライド”は迫力満点で、盗塁を量産するのもうなずけた。スタートのキレと速さで、焦った捕手がなんでもない投球を落とすのも理解ができる。
ドジャースタジアムを訪問したのは、09年WBC大会の韓国との決勝戦以来だ。この間、上原浩治が在籍したシカゴ、ボストンなど、全米を駆け巡ったが、エンゼルス時代の大谷を見た後はコロナ禍でメジャー行脚は途絶えていた。
15年ぶりの“再会”になったドジャースタジアムは、アン・ビリーバブルなサプライズを用意してくれたようだ。ここに愛着があるのは、時代が「平成」だった1995年から通い詰め、つらくも、楽しくもあった思い出を残してきたからに他ならない。
メジャーへの道を切り開いた野茂英雄がいなければ、イチローも、大谷も現れなかったかもしれない。阪神淡路大震災、地下鉄サリンオウム事件、すさんだ日本に一筋の“光”となったのが、その経緯はさておき、近鉄から米大移籍した男だった。
当初、野茂の竜巻をイメージした「トルネード投法」は否定的だったが、監督の仰木彬が容認し、いきなりタイトルを総なめにする。時代背景も、球界のルールも変わった。でも反対派が大勢だった「二刀流」を認めた日本ハムから羽ばたき、信念を貫いた大谷の姿がだぶって見えなくもない。
名門ドジャースには“個”を重んじてきた歴史がある。大リーグで有色人種のプレーを禁じた差別の時代に、ドジャース(当時ブルックリン・ドジャース)は、史上初のアフリカ系アメリカ人(黒人)のジャッキー・ロビンソンと契約を交わすのだった。
人種の壁を越えたドジャースは、名将ラソーダがイタリア系移民だったように、次々と多国籍人を受け入れる。その内のアジアの“顔”が、韓国人初大リーガーの朴賛浩(パク・チャンホ)だったし、日本から海を渡った野茂だった。
その人の苦しみは、その人にしかわからない。パイオニアだった野茂を書き出すと止まらないのでやめとくが、想像を絶する孤独と苦しみを味わったに違いない。久しぶりにドジャースタジアムに足を踏み入れ、当時を思い出しながら、郷愁にふけったものだ。
米大リーグ取材では、サミー・ソーサ、マーク・マクガイア、バリー・ボンズ、A・ロドリゲスら…、あまたのホームラン打者に触れてきたつもりだ。しかし、そのだれともタイプの異なる存在であるのは、前人未到を地でいく大谷のパフォーマンスが物語っている。
もはや「フォーティ・フォーティ(40本塁打、40盗塁)」の流行語大賞は必至。国民栄誉賞が話題になっても、政治利用されるのは避けたいところだ。そんな居酒屋で盛り上がりそうな先読みも、彼はかる~く越えていくのだろう。
ドジャースタジアムの熱狂に触れた今は、オオタニ風にいうなら「野球やろうぜ!」か。ドジャーブルーの姿を追いながら、そんな気分になったものだ。(敬称略)