川上哲治氏、11回目の命日「監督とは人間の器」坐禅組み修行「覚悟」の境地悟る/寺尾で候

川上哲治氏(2011年11月27日撮影)

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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日本シリーズまっただ中の10月28日は、巨人監督として9年連続リーグ優勝、9年連続日本一を成し遂げた川上哲治の11回目の命日だった。雨上がりの墓前は花々でにぎわった。

戦中戦後のスーパースターは史上初の2000安打を記録。「ボールが止まって見える」と名言を残した“打撃の神様”、前人未到の9連覇を達成した名将だった。

2000年以降でいうと、原辰徳が指揮をとった巨人、緒方孝市の広島、中嶋聡のオリックスの3年連続リーグ優勝が最長だ。9年連続は気の遠くなる偉業といえる。

川上は1974年に10年連続を逃した。首位に立った時期もあったし、シーズン終盤まで競った。惜しくも与那嶺要が監督の中日に逃げ切られて2位に終わった。そして監督の座を長嶋茂雄に禅譲する。

巨人はユニホームを脱いだ川上を「常務」から「専務」に昇任させた。しかし、オーナー正力亨から申し渡された役割は少年野球の指導だった。川上は球団が自分を現場から遠ざけたがっているのを悟ったようだ。

日本で初めて「少年野球教室」を開いたのは川上だった。読売新聞の販売店を拠点に全国津々浦々、年間130カ所で指導。その後もNHKとともに、小中学生への指導はライフワークになった。

本当は「ゼネラルマネジャー(GM)」のようなポストに就きたかった。「ドジャース戦法」を採り入れた後も、球団とは親密な関係にあった。GMのアル・キャンパニスに自分の姿を重ねたようだ。

75年の長嶋巨人は最下位に落ち込んだ。長嶋からアドバイスをお願いされたが、球団から煙たがれたのか、現場に足を運ぶのは控えなければならない雰囲気だったという。川上は1年で退団を決断するのだった。

日刊スポーツの“川上番”は三浦勝男(元代表取締役)だった。1962年に入社し、川上巨人のV1からV9までを取材。巨人担当歴17年は最長の名物記者だった。

「正力さん本人が遠ざけたというのはちょっと違うかもしれません。ただ経営に携わりたかったのは事実だと思います。でも出来ないのも分かっていた。それと川上さんは背広になっても球界に、社会に貢献したいという気持ちが強かった。まだ50歳代でしたからね。セ・リーグ会長もやろうかという方でした。むなしい気持ちを隠しながら取り組んだんです」

川上は臨済宗妙心寺派に属する禅の専門道場だった正眼寺で坐禅を組み続けた。老師の梶浦逸外から指導を受け、座り抜く厳しい修行の果てに、勝ち抜くための「覚悟」の境地を悟るのだった。

組織の行方はトップのリーダーシップ、かじ取りにかかっている。禅の影響を受けた川上本人に「監督とは?」と尋ねたことがある。御大からは「監督とは人間の器だ」と聞かされた。

当時の三浦は本紙で『変化球』と題したコラムを連載していた。そこでチームワーク、集団の和について執筆している。

「巨人では若い選手まで『因縁果報』という禅語を知っている。川上監督時代からの教えで、どんな結果であれ、よかれあしかれ、その起因するところは自分と相手との縁にある。自分を卑下することなく、現実をしっかりと掌握、善処していこうという意味である。つまり自分をよく見つめ、相手のこともよく考えよう、との狙いに通じることだ。チームワーク、チームプレーを看板にする巨人の一つの伝統の現れだろう」

14シーズンで11度の日本一。川上は「プロ野球の監督は負けて花道」と心の声を絞り出す。取材を突き詰めるほど常勝チームの組織を束ねた掌握術は、非常にシビアでデリケートだったことがわかる。おそらく破られることのない神がかった不滅のV9、勝負の厳しさを改めて痛感した日になった。(敬称略)