吉田義男さん追悼試合 かつて米球界「ジャッキー・ロビンソン・デー」うらやんでいた/寺尾で候

阪神対巨人 吉田義男さん追悼映像が流れる甲子園球場(撮影・上山淳一)

<阪神1-2巨人>◇27日◇甲子園

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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甲子園に永久欠番が復活した。現役時代は“牛若丸”とうたわれ、阪神監督で球団初の日本一に導いた吉田義男さんの追悼試合が、甲子園球場の巨人戦で行われた。チーム全員が背番号23をつけた。

メジャーリーグでは毎年、初の黒人選手として活躍したジャッキー・ロビンソンの背番号42を全選手がつけてプレーする「特別な日」がある。これを見ながら吉田さんはつぶやいた。

「あれ、ええな…」

長女の智子さんは、父親が米球界で毎年「ジャッキー・ロビンソン・デー」が設定されていることをうらやんだのを覚えていた。

「先人の方と同じ背番号をつけて試合をする姿を見ながら、父が『あれ、ええな…。おれもあんなんやってくれんかな』と言うんです。今思えば、すでに自分の最期を感じていたような気がします」

この日は智子さん、次女の範子さんら子供、孫、ひ孫を含めて計13人のファミリーが追悼試合を生観戦した。吉田さんが愛用した紺色の帽子、バッグを持参した。

現役時代の吉田さんが「巨人を倒してこそ、優勝の値打ちがある」とたたき込まれたのは、藤本定義監督だった。それから「伝統の一戦」は血が騒ぐ舞台になった。

阪神歴代選手で巨人戦に出場したのは吉田さんの425試合が球団史上最多。監督として指揮をとった210試合も最多の数字だ(2位藤本定義氏190試合、3位岡田彰布氏170試合)。

まさに「打倒巨人」の申し子は2月3日、脳梗塞で静かに息を引きとった。背番号23と同じ日に91年の天命をまっとうするのだから、死期のタイミングまではかったとしたら、劇的としか言いようがなかった。

創立から90年の伝統球団で、日本一監督が吉田さんと岡田彰布さんの2人しかいないのは異例といえるだろう。だがそれは阪神監督の過酷さを示しているのかもしれない。

監督時代の吉田さんの自宅には、試合に敗れた後は連日抗議の電話が夜中まで鳴り響いた。東京から嫁いできた篤子(とくこ)夫人は「関西弁が外国語のようで分からないし怖かったです」と振り返った。

智子さんも「電話が終わったかと思えば、話し中だった電話がかかってきました」と黒電話の上に座布団をかぶせても効果はなかった。学校からの連絡もつながらず、吉田家にはもう1本別の回線を引き、2台の電話があった。

とにかく電話が鳴りっぱなしの家で、夕食はお通夜のような毎日だったという。それでも篤子夫人は「何か夢を持って、それを追い続ける主人をうらやましく思っていました」と黙って支え続けた。

1985年(昭60)に21年ぶりのリーグ優勝、日本一を果たしたが、2年後の87年は最下位に転落した。球団史上最低勝率(3割3分1厘)のどん底で、マスコミも激しい批判を浴びせて降ろしにかかった。

ただ大徳寺の老師で、終生の師となった盛永宗興から諭された。

「2年前に優勝した時に、誰よりも選手を見極めたのは、あんたじゃないか。それが調子が悪いからと途中で投げ出してどうする。どんなにつらくても、ボロボロになっても、一身に泥をかぶって、みっともない姿をさらけ出して辞めたらいい」

阪神電鉄本社には、コーチ刷新を条件に留任を検討する案もあった。だが最後まで吉田監督は指揮をとって“一蓮托生(いちれんたくしょう)”を貫いたのだ。自ら潔くクビになって帰ってくると、待ち構えたコーチ陣から拍手を受けたという。

普通の家庭とはかけ離れた生活に、次女の範子さんは早くから実家を出ている。「父と話をするなんて恐れ多かったです」。しかし85年セ・リーグ優勝の翌日、父親に内緒で都内の選手宿舎に会いに行った。

「わたしに気付いてくれた父が『優勝したわ!』と手を差し伸べて笑顔で握手をしてくれたんです。あの時だけは父の喜ぶ姿を独占できたような気がして、とてもうれしかったです」

阪神監督を計3度、8シーズン務めた吉田さんは、フランス・ナショナルチームでも指揮をとった。欧州各国はもちろん、アパルトヘイト政策が廃止になった直後の南アフリカにも遠征した。

ケープタウンに行ったかと思えば、風土病の予防注射を打ってニカラグアでも試合をした。缶詰を食べながら転戦するなど、世界30カ国・地域で采配を振ったプロ野球監督は見当たらない。

真夜中までのいたずら電話でノイローゼ気味になった篤子夫人は胃潰瘍になった後、全摘手術を受けるほど大病を患った。だから吉田さんも内助の功には感謝してもしきれなかった。

「こちらは炭屋のこせがれ、むこう(篤子夫人)は深窓で育っているから苦労したと思いますわ。2人の娘を厳しく育てながら、わたしの道に文句を言わずに、よく辛抱してついてきてくれました」

阪神が生え抜きで、功労者の吉田さんに対して営んできた、お別れの会、一般献花式、追悼展、試合など追悼行事の数々は、球団史上最大規模になった。

監督業の厳しさを父親と一緒に味わってきた愛娘らファミリーも、偉大なる追悼試合を見守った。背番号23がキラキラと輝いた時代を脳裏に浮かべながら…。これで1つのケジメがついた。【編集員=寺尾博和】