日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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プロ野球の世界で優勝するのは難しい。阪神で優勝するのは、なおのこと難しい。そこから日本一の頂点を極めるのは、さらに至難だ。
その阪神で監督に就任した藤川球児が、1年目からリーグ優勝を達成した。他の5球団のもろさも際立ったから、ヤマ場を欠いたゴールインになった。
当日、甲子園でインタビューに立った藤川が、球団史上初になった新人監督の優勝について問われた「答え」を聞いて、少し監督の素に触れた気がした。
「難しさは、選手たちとの距離感。それからOBの皆さま、ぼくは若いですから、今までたくさんお世話になってきた先輩方から距離を置いて、グラウンドに没頭する形でずっと立ち続けたので、そのあたりは戦うためだったので先輩方にお許し願いたいなと思いますね」
突然口を突いたフレーズの意味を理解できたファンはほとんどいなかったはずだ。監督はどこかのタイミングで、この件についての釈明をしたいと考えていたのかもしれない。
阪神にかかわらず、試合前の監督は、OB、評論家、解説者らの“取材”に応じることを慣例としてきた。それがまたチームを束ねる監督業の1つでもあるからだ。
大リーグでも、グラウンド入りしたフィールドマネジャー(監督)の仕事について「ゼネラルマネジャー(GM)との連係とメディア対応」に重点が置かれてきた。
阪神でも歴代監督のタイプによっては、ヘッドコーチがマスコミとのパイプ役をしたチームもあった。藤川は1年目から本人のコメントを借りれば外部関係者と「距離を置いた」のだった。
シーズン中は例外のケースも見受けられたが、今までに比べると、自然とゲーム前のチームをチェックする評論家の姿が少ないシーズンになったといえるだろう。
この件について、巨人監督だった川上哲治の長男で、ノンフィクション作家でもある川上貴光から問い合わせを受けた。こちらが説明をすると、先方から切り出された。
「うちの父も1年目から“哲のカーテン”というやつを敷いたじゃないですか。それをイメージしたので、ちょっと聞きたかったんですよ」
巨人で不滅の9連覇を成し遂げた川上は、監督1年目だった1961年(昭36)の宮崎キャンプで、取材陣のグラウンド内への立ち入り禁止を制限した。
今では考えにくいが、当時は新聞記者がフリー打撃を終えた選手に話を聞いたり、ティー打撃の手伝いなどをした時代だったという。川上は取材規制で情報を統制し、そしてチームを引き締めたのだ。
これを日刊スポーツ記者・治田恭男は「哲のカーテン」と報じた。第2次大戦後の欧州で、東西冷戦の緊張状態を比喩し、英国首相チャーチルが表現した「鉄のカーテン」をなぞらえたものだった。
川上は自らベンチに近づき会話を交わしたし、ちゃんと取材時間を設けた。その私心を持ち込まない気持ちは、しばらくは理解されなかった。記者団は反発し、本人の“マスコミ嫌い”は定着していく。
ただ川上が私情を入れず、勝負に徹する厳しい姿勢を示したかったのは事実だった。周囲からは異常と思われただろうが、2年目はさらに一線を画し、球界の常識となった。
藤川の“フジのカーテン”が同じ意味だったか否かは分からない。ただ彼が戦前から口にした勝負に「没頭」した結末が、優勝につながったのは事実だと思った。
川上野球は栄光のV9どころか、14シーズンの監督生活で、日本一が11度だから、もはや空前絶後と言わざるを得ない。私情を捨て、勝負の鬼と化し、「人」と「組織」を掌握した。
「いやぁ、巨人は弱くなりましたね。ちょっと涼しくなってきましたから、近いうちにお会いしましょう」
こちらからそう言って電話を切った。(敬称略)【寺尾博和】