プロ野球南海(現ソフトバンク)の黄金期を支えた内野手で、近鉄の監督も務めた岡本伊三美(おかもと・いさみ)さんが15日午前7時57分、肺炎のため大阪市内の病院で死去していたことが20日分かった。95歳。京都市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行った。喪主は長男の猛(たけし)さん。
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最後に岡本さんと自宅で向き合ったのは、6年前の20年3月19日だった。新型コロナウイルス感染拡大で、プロ野球の開幕延期が決まった直後だったので、その日のことはよく覚えている。
新人記者として初めて担当したのが、岡本監督の近鉄だった。後にダイエーに身売りする古巣南海ホークス「最後の番記者」として暴れたことも知ってか、心やすく部屋に通してもいただいた。
1950年(昭25)の2リーグ分立後の南海は「100万ドルの内野陣」と称された名門で、その1人が「野球でメシが食えるなんて考えられなかった」という二塁手の岡本さんだった。
その南海が球団初の日本一を達成したのは、岡本さんが主将を務めた59年。それまではセ・リーグのライバル巨人に4度敗れていた。パ・リーグ優勝から日本シリーズまで20日間の間隔があいていた。
そこで鶴岡一人監督率いるチームは、なんと全員で和歌山・白浜に一泊温泉旅行に出かけるのだった。「今までは巨人に敗れた後で残念会をしていた。どうせやるなら戦う前に宴会をやろうやないか」。
そんなかけ声で、今では考えられない日本一決戦前の破天荒な“どんちゃん騒ぎ”で気勢を上げたのだ。エース杉浦忠投手の血染めの4連投、岡本さんの活躍もあって頂点に上り詰めた涙の御堂筋パレードは、今も語り草だ。
同じ年のチームメートで、球団広報も務めた梶田睦さんが「今年1月に病院で2時間話したのが最後になりました」と現役時代の背番号24をつけたユニホームが棺に供えられていたことを教えてくれた。
監督経験者で、実質経営まで取り仕切る球団代表まで務めたのは、三原脩さんと岡本さんの2人。南海ホークスOB会が消滅後に存在したのが「岡本会」だった。勝負師でありつつ、穏やかで、ロマン派で、なにより本人の人望を証明している。
【寺尾博和】