<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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大阪・難波のシンボルだった大阪松竹座が5月26日、103年の歴史に幕を下ろした。昨年8月、劇場を運営する松竹が設備の老朽化を理由に閉館を発表していた。
華々しく開場100年を迎えたメモリアルイヤーに寄稿文を執筆した拙者も感情を動かされた1人。あれから別れの日が訪れるなど露とも知らず切なさがこみ上げた。
1923年(大12)、松竹の創業者、白井松次郎によって建築された関西初の本格的劇場は、関東大震災が起きた年、大正ロマンの流れをくむかのように、1年半の歳月をかけて落成する。
純ヨーロッパ風、オペラハウスを思わせる劇場。ネオ・ルネサンス様式の白亜の殿堂は、米国製の焼れんがの外壁で覆われた。正面の大アーチは“道頓堀の凱旋(がいせん)門”と称されてにぎわった。
1941年に太平洋戦争の戦火を浴び、45年の大阪大空襲で道頓堀の町は燃え上がる炎とともに灰じんと帰した。それでも大阪松竹座だけがその姿を残したのは、まさに芝居町の奇跡だったのだ。
大阪松竹座が位置した地域は、明治時代から5つの芝居小屋が「道頓堀五座(中座、角座、朝日座、弁天座、浪花座)」として立ち並んだ。“道頓堀のブロードウェー”と表されたほどの盛況だったという。
当初の大阪松竹座は、松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)のレビュー、映画を上映。97年に外観を保存して建て替えられた。歌舞伎、現代劇、喜劇に、ミュージカル、コンサート、落語会など多彩な公演を発信した。
長い役目を終えた異空間にはさまざまなジャンルの舞台を通して思い出を残してきた。役者は劇場とともに息づく。これまで心を揺さぶられた瞬間が、今も鮮明に脳裏をよぎる。
さて大阪松竹座がラストデーになった日にスタートした交流戦で、古巣阪神に3連勝した日本ハムのビッグボスこと、新庄剛志とベンチ裏でしばらく話し込んだ。
「久しぶりの甲子園でしたね? しかもまんまと勝ちきった」
「ベンチで采配しながら球場に見とれてましたよ。ハハハッ! グラウンドからスタンドを望む絶景ね。ぼくにとっては“ふるさと”ですから。それと特に気付いたのは風。風は方向もそうだけど、強弱も変わってきてますね。それに前より内野がさらによく整備されてる感じがしませんか。この内野なら阪神はエラーできないよね。だから(阪神)中野君は失策ゼロでしょ。サトテル? オシャレになってきたね。これからスターの階段を上がっていくには大事なことですよ」
野球史にはまれな存在の役者で、スターなのが新庄。彼がリーグにかかわらず試合を詳細にチェックしているのは聞かされていたが、他球団の選手のファッションチェックまでしているのは新しい驚き。それは野球に対する姿勢の微妙な変化を、新庄流に感じとっているのかもと察したものだ。
「ぼくは外野でしょっちゅう手にとった芝を上に上げて風向きを確認してました。でも今の子はほとんどしないね。どうしてだと思いますか? やっぱり風力が弱くなってるんですかね」
フィールディングで評価されるゴールデングラブ賞は、阪神で5年連続を含む7度、日本ハムで3年連続で計10度受賞した名外野手だった。
「ぼくは阪神園芸さんにもヒントをもらってました。グラウンドキーパーの森さんが『背番号が5でなく2に見えるぞ』と言うんです。背中が丸まって見えるという意味。それでぼく、バットを持った両手を上に上げて構えるようになった。ぼくは甲子園に育てられたんです」
日本ハムのつまらないミスは致命的で、これが減少すれば上昇するだろう。今度はいつ甲子園で会えるのかはわからないが、ビッグボスとは「そのうちまた…」といって別れたのだ。【寺尾博和】(敬称略)