張本勲巨人移籍の裏で幻の“阪神張本”トレード劇 吉田義男の言葉に涙した張本/寺尾で候

75年12月、トレードで獲得した張本勲さん(中)の入団発表に出席した長嶋監督。左は正力オーナー

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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最近は世間がざわつくようなトレードが少なくなった。米国から帰って古巣を袖にし、金を積まれた球団に移籍するような事例はあっても、大物の交換トレードは減少傾向といえる。

日本プロ野球最多記録の通算3085安打を放って「安打製造機」の異名をとった張本勲が、日本ハムから巨人に移籍したのは、1976年(昭51)のことだった。

トレードの交換要員になったのは、左腕エースと言われたこともあった高橋一三、4番に座ったこともある内野手の富田勝だった。ただ張本の運命を変えた移籍には裏話がある。

それが幻と消えた“阪神張本”のトレード劇だ。吉田義男が監督に就いた1年目(75年)の阪神は、広島、中日と優勝争いをしたが、最終的に3位に終わっていた。

ピッチャーは、主戦でのちにトレードで南海入りする江夏豊が12勝、9勝の上田次朗、元阪急・米田哲也らがいて、広島から移籍した安仁屋宗八が最優秀防御率に輝いた。

また田淵幸一が王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打で初タイトルを手にする。後半に掛布雅之がレギュラーの座を固めるなど、阪神としては画期的なシーズンだった。

生前の吉田は「わたしは結構よくトレードやりましたんや」と京都弁で語っていた。V逸した75年オフに「張本獲り」に動いたのだ。“商談”に乗ったというのが正確だろうか。

張本が日本ハムでトレード直訴していることを聞きつけた。「張やん、うちに来いや」。吉田が直接会って、本人を口説いた。地元の甲子園に近い宝塚には土地も用意された。

そして「虎の張本」誕生にこぎつけた。「張やん、オーナーにも通してるからな。心配せんと来てくれたらええからな」。当の張本から返事をもらった吉田は優勝への青写真を描いた。

しかし事態は急展開を迎える。吉田と同じ監督初年度の長嶋茂雄が率いて、球団創設初の最下位だった巨人が巻き返しをはかったのだ。もろもろあって張本は巨人入りに翻意した。

これは吉田をちょっぴり知るものとしての想像だが、勝負の世界に生きる男は苦虫をかみつぶし、頭に血が上ったに違いない。だが張本から電話で連絡を受けたときは冷静を取り戻し、逆に本人を激励するのだった。

「張やん、あんたよかったなぁ。あんた巨人が好きやったもんな。自宅も東京にあるわけやし。巨人いって頑張りや」

2人のやりとりについては、あとで張本本人も語っている。

「すぐに吉田さんに電話をしました。吉田さんに『頑張れよ』と言っていただき、わたしは思わず西のほうに向かって頭を下げ、そのふところの深さに涙をこぼしました。吉田さんには足を向けて寝れないんです」

翌76年の長嶋巨人は、張本が3番に入ったことで、4番王がよみがえって、セ・リーグ優勝を達成。一方吉田阪神は、その後塵(こうじん)を拝した形で、2ゲーム差の2位に終わっている。

天国に旅立った張本の野球人生をいま一度たどりながら、ふと考えた。さて、もし希代の大打者が阪神にきていたら、大トレードの交換要員はだれだったのだろうか、と…。(敬称略)【寺尾博和】