<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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監督とは孤独な“生きもの”だ。1962年(昭和37)10月3日、阪神は2リーグ分立後の初優勝を成就。広島に6-0で勝利し、秋晴れの甲子園で宙に舞った監督・藤本定義が、日刊スポーツ紙上に手記を寄稿している。
「シーズン始めから混戦は覚悟していたものの、これだけ秒読みがむずかしいとは予想もしていなかった」と書き始めた藤本は監督業に触れている。
「わたしが監督に就任したときにまず考えたことは人の和だった。監督として一番大切なのは、選手のプロパビリティーということをよく考えることだった。選手の生活環境や性格を知ることがチームを一本化させる唯一の手段。監督としては極力その点に神経を使う必要がある。そしてこれが成功したのは私の手腕ではない。阪神の選手が実にいい選手だったということと、これまで部外者だった私を同化してくれた“名門阪神”という伝統の力だと私は思っている」
優勝に導いた巨人で確固たる地位を築き、パシフィック、太陽、金星、大映、阪急と監督を歴任した。阪神、巨人両球団で監督を務めた人物は唯一。ある意味、外様の男がライバル球団から請われて指揮をとった。
牛若丸のショート吉田義男は、完封勝利を収めたマウンドの小山正明に飛びついた。吉田は「夢中でした。監督のもとにナインがやるんだという気持ちになったのが、なにより戦力だったと思います」とコメントした。
もちろん後で“よっさん”と慕われ、自身がその座に就き、日本一監督にまで上り詰めるなど知るよしもなかった。「近寄りがたい、非常に厳しい人でした」といった厳格な藤本の背中をみて育ったのが、後々の野球人生に影響したのは間違いなかった。
その監督吉田もまた孤独の中にいた。「天国と地獄」と語った計8シーズンの監督生活。社会背景も違ったが、負ければ今では考えられないほどの悲惨な仕打ちにあったことは、ことあるごとに聞かされた。
連続リーグ優勝の日、ABCラジオ「緊急放送! おめでとう阪神タイガース! おはようパーソナリティ 熱覇スペシャル!」に看板アナウンサーの小縣裕介、古川昌希と出演する機会に恵まれ、広島市内の祝勝会の合間を縫ってインタビューに応じた監督・藤川球児と話した。
まるで先人の猛虎魂に引き寄せられたかのように、Xデーが初優勝と同じ10月3日になったことを知らされると、監督は「えっ。ほら、やっぱり…」と敏感に反応したので、続けざま拙者は「では阪神の伝統とは?」と紋切り調で切り返した。
「逆境に立ち向かう選手の育成と、それを真っ向から受け止める監督がいるからこそ、選手たちが自由に立ち振る舞えると。でも本当にうれしいですね。その話を聞くと…。うん。監督業として、藤川球児がいないものとしてやっていたので。よかったです」
シーズン中の優勝争いの道を「修羅」と表現し、連覇を遂げた試合後は「地獄の日々だった」と打ち明けた。幾度もはね返された壁を突き破った。自我ではなく、藤川球児を捨て、ひたすら阪神監督の誇りをまっとうしようと決めていたのだと。
初代日本一監督の吉田は「監督は阪神タイガースの歴史の1ページに過ぎない」と言い続けた。勝てば名声を得るが、油断は足をすくわれ、負ければ罵声を浴びる因果。情緒的でなく、ひたすらプロ意識を徹底し、実行する集団であることが第一義だろう。
そこに没頭できたものだけが生き残る世界。「球児流マネジメント」についても赤裸々に語っていただいたが、詳細は後日にしたい。10・3の奇跡。限られた時間だったが、孤独な監督業に向き合う藤川の心根にちょっぴり触れた夜だった。(敬称略)【寺尾博和】