【ドラフト】悲喜こもごも…強行指名、空白の1日、暴漢に襲われたことも/衝撃事件一覧

プロ野球ドラフト会議の会場(2023年撮影)

プロ野球ドラフト会議は22日、東京・品川で行われる。1965年(昭40)に新人選手選択会議(ドラフト)が行われるようになってから、悲喜こもごもの“事件”が起きている。過去の衝撃的なできごとを振り返る。

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◆入団せず 第1回ドラフト会議でサンケイ・スワローズ(現ヤクルト)は11人の新人選手を指名したが、ドラフト1位の河本和昭投手(広陵)ら9選手が入団しなかった。全体でも入団したのはセ・リーグで67人中30人。パ・リーグで65人中21人。巨人1位に堀内恒夫投手(甲府商)。近鉄2位に鈴木啓示投手(育英)がいた。

◆田淵逆指名 1968年(昭43)法大の主砲だった田淵幸一捕手はドラフトを前に巨人を逆指名。「巨人以外は熊谷組に行きます」と強硬に拒否したが、阪神が指名。田淵は涙で抗議した。後日、巨人が阪神にトレードを申し入れたといわれ、巨人が田淵と接触するシーンが目撃され大問題となった。結局、指名通り阪神入りが決まった。

◆荒川殴打事件 1969年(昭44)のドラフトで大洋から1位指名された早大の荒川堯内野手は「巨人、ヤクルト以外は行かない」と拒否。翌70年の正月に2人組の暴漢に襲われ、頭部を強打される事態となった。2月に渡米、11月に大洋と契約を結んだ。実はヤクルト移籍を条件にした契約だったことから、翌年1カ月の出場停止処分を受けた。

◆空白の1日 1978年(昭53)のドラフト前日、巨人が前年のクラウンの指名を拒否して米留学していた江川卓投手と契約を結んだと発表した。実行委員会がこれを無効とすると、巨人側はドラフト会議をボイコットした。会議では阪神が1位指名した。巨人は提訴したが、コミッショナー裁定がくだり、却下された。しかし、直後にコミッショナーから、阪神と契約したあと巨人とトレードで解決したいとの「強い要望」が出され翌年2月、小林との交換が決まった。

◆社会人との争奪戦 1981年(昭56)、西武がプロ拒否を宣言し社会人・熊谷組入社を決めていた名古屋電気・工藤公康投手を6位で指名した。学校側は思いもかけぬ指名に断固拒否の姿勢を見せたが、西武も負けてはいない。工藤家と接触し軟化したとみるや一気に契約を結んだ。これで工藤は「二重契約」を結んだ形となったが、熊谷組が断念、年明けに西武入りが決まった。学校長が直後に工藤側を非難する声明文を発表する異例の事態となっていた。

◆進学一転プロ入り 1985年(昭60)、巨人が早大進学を表明していたPL学園・桑田真澄投手を1位指名。巨人を逆指名していた同僚の清原和博内野手は西武の1位となり、涙で抗議した。桑田はドラフト直後に早大受験のため上京したが、突如大学関係者と話し合い、受験断念を発表した。受験を隠れみのにした「出来レース」とまでいわれた。当初難色を示した清原も最終的には西武入りを決めた。

◆金銭授受問題 2004年(平16)はドラフト会議を前に、2球団のオーナーが退任する問題が生じた。8月13日、巨人がドラフトでの獲得を目指していた明大・一場靖弘投手(後に楽天入団)に約200万円を渡していたことを公表。当時の渡辺恒雄オーナーが辞任し、土井球団社長、三山球団代表らフロント首脳4人が解任された。10月には阪神が25万円、横浜が60万円を授受していたことが発覚。阪神は久万俊二郎オーナー、野崎球団社長が辞任(野崎社長は取締役として球団に残り、後に連盟担当に就任)した。

◆勘違いで歓喜 2015年(平27)、ヤクルトは明大・高山俊外野手を1位指名。阪神と競合した。真中監督はくじを引くと、ガッツポーズ。阪神金本監督はがっくり。だが、本当に当たっていたのは金本監督の札の方だった。真中監督は「くじに、ドラフトのマークがあったのでそれでOKだと思った。最後まで全く気付きませんでした」と勘違いの原因を説明。「あのガッツポーズを返してください」と、ため息をついた。勘違いが判明する前、テレビインタビューで高山に「慣れ親しんだ神宮球場で一緒に頑張ろう」とまで言ってしまっていた。仕切り直しで、東洋大・原樹理投手を1位指名した。

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