「ケンドー・ナガサキ」のリングネームで知られるプロレスラー桜田一男さんが1月12日に71歳で亡くなった。昭和の時代に日米で活躍し、多くのレスラーに影響を与えた桜田さんをしのび、過去の紙面と写真を振り返ります。

94年12月、大日本プロレス道場開きで写真に納まるケンドー・ナガサキさん(左端)。中央は谷口裕一、右はグレート小鹿
94年12月、大日本プロレス道場開きで写真に納まるケンドー・ナガサキさん(左端)。中央は谷口裕一、右はグレート小鹿

父が勤める網走刑務所内で育った桜田さんは、中学卒業後に大相撲立浪部屋に入門。64年に初土俵を踏み、関取目前の71年に廃業。同年、日本プロレスでデビューした。70年代後半から80年代にかけて米国で落武者姿のヒールレスラーとして活躍。米国ではピストルを持った相手に素手で立ち向かってたたきのめした逸話も残る。

この時代までの桜田さんの記事はなく、登場するのは90年8月3日付。メガネスーパーによる新団体SWS旗揚げ時のメンバー一覧に名が残る。92年に同団体は天龍源一郎のWARとナガサキのNOWに分裂。94年6月30日のWAR宮城大会では天龍に消火器をまき散らす奇行も。

“突然だった。ナガサキがリング下に駆け込んできた。消火器をまき散らし、白い煙が会場に立ちのぼる。アニマル浜口が、ナガサキを止めに行ったがもう遅かった。天龍はその消火器をまともに顔面にあびていた”。

その後も、消火器を武器にWARとの抗争を繰り広げた。

大日本プロレス愛知大会でナガサキさんは空手家ニコ・ゴルドーに勝利した(95年9月14日付日刊スポーツ首都圏版)
大日本プロレス愛知大会でナガサキさんは空手家ニコ・ゴルドーに勝利した(95年9月14日付日刊スポーツ首都圏版)

94年12月にはグレート小鹿が立ち上げた大日本プロレスと契約。95年9月13日には、空手家ニコ・ゴルドーとのバーリ・トゥード(総合格闘技)戦に挑戦。2回2分47秒裏アキレス腱(けん)固めで勝利した。

“ナガサキは「何もできなかった。プロレス、ケンカともまったく違うよ」とそり上げた頭に大粒の汗を浮かべて苦笑いだ”。

ナガサキさんは松永光弘をピラニアが泳ぐ水槽に沈めてデスマッチに勝利(96年8月20日、日刊スポーツ首都圏版)
ナガサキさんは松永光弘をピラニアが泳ぐ水槽に沈めてデスマッチに勝利(96年8月20日、日刊スポーツ首都圏版)

いまや大日本の代名詞となっているデスマッチ戦線の土台も作った。96年8月19日には、横浜文化体育館で松永光弘と世界初のピラニアデスマッチも敢行した。その後はフリーとして活動しながら飲食店を経営していたが、近年は千葉で静かに暮らしていた。こわいイメージの半面、情に厚い人だった。死去の報を受け、天龍や米国時代にともに過ごした武藤は追悼のコメントを寄せた。大日本で25年間ずっと「付き人」制がないのは、桜田さんの影響だという。昭和のプロレス界を彩った名レスラーがまた1人世を去った。