昨年右足を切断し今年6月に「義足プロレスラー」として復帰する谷津嘉章(63)は、モスクワ五輪時に犠牲になった「幻の金メダリスト」。世界的な新型コロナウイルス感染拡大による東京オリンピック(五輪)開催危機の中、自分の経験をもとに五輪を目指す選手へ助言を送った。

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「谷津って男はとことん五輪に見放された男。縁がないみたいです」と谷津は笑った。レスリングで76年モントリオール五輪フリースタイル90キロ級に出場し、8位入賞。80年モスクワ大会は金メダルを期待されながら政治的事情による日本のボイコットで出場できなかった。プロレスラー転向後、日本レスリング協会から声がかかり、88年ソウル五輪を再び目指したが、世界連盟がプロの参加を禁じたため再び五輪の舞台を踏むことはなかった。

アマチュアレスリング時代の谷津
アマチュアレスリング時代の谷津

開催が危ぶまれる今夏の東京五輪と、80年モスクワ五輪の状況は重なる。もし開催にこぎつけたとしても、世界中の選手が最高のコンディションで日本に集結するのは難しい状況だ。過去に五輪に出場できずに涙をのんだ谷津が考える五輪とは「世界の祭典」。祭典にならないのなら、1年延期すべきと提案する。「一個人の意見ですが、コロナの問題が停滞して、安全宣言をしたとしても、アジア地域ということで『行っても大丈夫なのか』という風評が残る。1年間待って、同じスケジュールでやれれば今よりももっと安心してできると思う」。

また、予想外の事態で進んでいない五輪代表選考についても思いをはせた。「まだ、代表は半分も決まっていない。となるとここまでの結果、データで選手を決めていくと思う。最後の代表選考で起死回生をかける連中は却下される。協会の線引きでどういう選手を選ぶのか。どうしても、公平ではなくなる。その辺は選手も覚悟しなくてはならない。だけど選ばれても、五輪が中止になればもれなくばっさり切られる。僕は、ばっさり切られた人間。4年をかけて、照準を合わせて調整しているから、いま調整している選手らの気持ちは理解できます」。

モスクワ五輪に出場できなかった谷津はすぐにプロレスラーに転向した。アマレス選手としてピークを迎えながら次の84年ロサンゼルス五輪を目指さなかったのは「魅力がなかったから」と言う。「モスクワ五輪の時は、西側諸国がボイコットをした。だから、西がそれをやったってことは、ソ連や共産圏の国も報復でボイコットするだろうと思った。(東西の)片方だけが出た五輪だから、実績は残りますよ。メダリストになるのはたやすい。だから、全然自分には価値を感じられなかった。わずかの差で勝つ喜び、達成感。そういうのが薄いだろうと。それだったら、かねてやりたかったプロレスの世界にいってしまえ、と」。五輪とは、メダルの価値とは何なのか。犠牲になった谷津の言葉は重い。

聖火トーチを持つ姿でポーズをとる谷津嘉章
聖火トーチを持つ姿でポーズをとる谷津嘉章

いまだ消化しきれぬ五輪の思いを、聖火に託す。3月29日に、足利工大付高卒業という縁もあり足利市の聖火ランナーを務める。区間はわずか200メートルだが、昨年糖尿病により右足を切断し、義足となった谷津にとって大変な仕事だ。依頼を受け、ラン専用の義足をつけて本格的な練習を始めたのは今年1月から。2月に入り、ようやく走れるようになった。新型コロナウイルスの影響で沿道無観客で実施される方向だが、「走るからには美しく走りたい」と実際のトーチと同じ重さの棒を持ち、下を向かずに走る練習を続ける。

「谷津がどんな走りをするんだろうと楽しみにしてくださっている人がいる。できれば生で見せてあげたい。そのつもりで走り込んで、美しく走る練習をしてきました。東京五輪のトーチを持って、区間から区間に渡すまでの責任をまっとうして思いをぶつけながら、五輪というものへの自分なりのピリオドを打てればいいなと思っています」。【高場泉穂】

◆谷津嘉章(やつ・よしあき)1956年(昭31)7月19日、群馬県明和町生まれ。レスリングで76年モントリオール五輪8位。80年モスクワ大会は日本のボイコットで不参加。「幻の金メダリスト」と呼ばれた。80年に新日本プロレスでデビュー。その後、全日本などさまざまな団体を渡り歩き、ジャンボ鶴田との「五輪コンビ」で88年に世界タッグ初代王者となる。10年に現役引退も15年に復帰。19年6月に右足膝下切断。186センチ、115キロ。

◆モスクワ五輪 1980年7月19日~8月3日にモスクワで開催。開会式の入場行進に参加した国と地域は81(当時のIOC加盟国・地域は145)。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議した米国、日本、西ドイツなど50カ国近くが不参加。英国など参加した西側諸国の17カ国・地域が国旗ではなく、五輪旗やNOC(国内オリンピック委員会)旗を使用した。日本は18競技で178人の代表がいた(最終選考を行わなかった馬術の候補選手10人含む)。そのうち、次のロサンゼルス五輪に出場したのは50人だけだった。