馬場元子さん死去、19年ぶり…馬場さんのもとへ

95年9月、35周年パーティーでジャイアント馬場さんと笑顔で話す元子さん

 全日本プロレスの創始者、故ジャイアント馬場さん(享年61)の夫人で同団体の社長も務めた馬場元子(ばば・もとこ)さんが14日、肝硬変のため亡くなった。全日本プロレスが23日に発表した。78歳だった。通夜・告別式は19、20日に親族のみで執り行われた。日本のプロレス界のスターとして一時代を築いた馬場さんを裏方で支えた。

 元子さんは、昨年1月に東京・恵比寿の自宅で「喜寿を祝う会」に出席したが、腹水のため体が膨れ上がり、動くのも大変そうだった。死期を悟っていたのか、同5月にメキシコのホスピスへ行く計画も明かしていた。同6月に体調が悪化し都内の病院に入院。医師から「余命2週間」と宣告された。一時は回復したものの、今月13日に容体が急変し、14日に帰らぬ人となった。

 馬場さんとは、15歳の時、まだプロ野球巨人の投手時代に出会った。1966年に婚約し、72年の全日本立ち上げなど陰から支えた。82年に馬場さんが結婚を公表するまで、表舞台には出なかった。99年に馬場さんが亡くなると、社長を引き継いだ故三沢光晴さんを取締役としてサポートした。00年に経営方針の違いから三沢さんらが離脱すると社長に就任。残った川田利明らと全日本存続に奮闘した。離脱していた天龍源一郎を10年ぶりに復帰させ、新日本から武藤敬司を招き、団体を立て直した。

 馬場さんを守るための人生だった。巨人と呼ばれた馬場さんを「怪物」扱いし好奇の目を向ける人に厳しく、「ちゃんと1人の人間として見て下さい」と話していた。全日本生え抜きの渕正信(64)は「元子さんは馬場さんの私設マネジャー。苦しい時も『全日本をつぶすわけにはいかない』と必死だった」と語り、「ボウリングがうまくてね、馬場さんの指に合うボウリングのボールを作ったんだよ。『うちのかあちゃんにはかなわない』って笑っていた」と2人をしのんだ。

 元子さんは馬場さんの死後、遺骨をずっと手元に置いていた。馬場さんと、馬場さんが作った全日本プロレスを心から愛していた。【桝田朗】