マサ斎藤さん死去、支えだった東京五輪の願い届かず

16年12月、栃木の病院でリハビリに励むマサ斎藤さん

 日米マットで活躍したプロレスラーのマサ斎藤さんが14日午前1時5分に死去した。75歳だった。弟子の佐々木健介氏(51)が在籍する健介オフィスが16日、発表した。現役引退した99年ごろから発症した難病のパーキンソン病と闘い続けてきたが、最近になって容体が急変したという。87年にアントニオ猪木との「巌流島決戦」の死闘が名勝負として語り継がれる64年東京オリンピック(五輪)レスリング代表。20年東京五輪を目前にしてこの世を去った。通夜・告別式は近親者のみで行う。

 プロレス界の伝説が天国へ旅立った。99年ごろから発症したパーキンソン病と向き合ってきたが、数年前から体重が激減。栃木県のリハビリ病院などに入院しながら復活を目指したが、かなわなかった。来年2月に大阪でリングに立つ予定で、6月29日から40日間の集中リハビリに取り組んでいたものの容体が急変した。

 斎藤さんの妻、倫子(みちこ)夫人は「闘病生活は“GO FOR BROKE(当たって砕けろ)”をモットーに掲げる彼にしても想像を絶するほど辛く厳しいものでした。(中略)穏やかながらも、新たなチャレンジへ向かうような、マサ斎藤らしい力強い旅立ちでした」とコメントした。

 精神的な浮き沈みもありながらインディー団体コーチを引き受け、気持ちを高ぶらせた。74歳だった16年12月にリングイン。「来年、再びカムバックのチャンスも出てきました。リハビリに意欲を燃やしていた矢先」(同夫人コメント)だった。納棺する際、斎藤さんはジャパンプロレス時代の上下のジャージー、白いブーツ、靴下を着用したという。

 明大4年時の64年、レスリングのヘビー級代表として東京五輪に出場。コーチから4年後の五輪を目指すよう勧められたが、65年に馬場、猪木らがいる日本プロレスに入団。五輪出場選手のプロレス転向第1号だった。翌66年に東京プロレスの旗揚げに参加するも、すぐに経営難に陥り、米国に渡った。ロサンゼルスなど西海岸でブレーク。NWA、WWF(現WWE)、AWAと3大メジャー団体を転戦し、全米に名をとどろかせた。87年10月、無観客での猪木とのデスマッチ「巌流島の戦い」は2時間超の死闘を繰り広げるなど多くの伝説を残した。

 16年大みそかに日刊スポーツのインタビューを受けた際、70キロにまで減った体で背中を少し丸めながら懸命にリハビリする姿をみせた。17年を迎える直前、斎藤さんは「18、19、20…」「もつな」と言った。20年東京五輪に向け、心を奮い立たせた熱い願い-。それは、届かなかった。

 ◆マサ斎藤(さいとう) 本名・斎藤昌典。1942年(昭17)8月7日、東京・中野区生まれ。明大在学中の63年に全日本選手権はヘビー級でフリーとグレコの両スタイル制覇。翌64年の東京五輪はフリーで出場。大学卒業の65年に日本プロレス入門し、同年6月にプロデビュー。66年から参加した東京プロレス崩壊後、渡米。西海岸で悪役として活躍。WWFタッグ王座、AWA世界ヘビー級王座などを獲得。その後、新日本プロレスなどに参戦。99年に現役引退。得意技は原爆固め、監獄固め。現役時のサイズは180センチ、120キロ。

 ◆パーキンソン病 1817年に英国のジェームズ・パーキンソンにより初めて報告された。脳内の神経伝達物質ドーパミンが減少し、運動機能に関わる大脳からの信号がうまく伝わらず、筋肉のこわばりなどの症状が出る病気。手足が震えたり歩行が困難になったりする。厚生労働省の指定難病。