今、死と向き合う猪木/力道山没後55年インタビュー

インタビューでポーズを決めるアントニオ猪木参院議員(撮影・足立雅史)

昭和、平成とプロレス、格闘技界を引っ張ってきたアントニオ猪木氏(75=参院議員)が、今日15日に没後55年を迎えた故力道山(享年39)を語った。力道山は63年12月15日に、暴力団員に腹部を刺されたことがもとで死去。わずか3年半の付け人生活から、師匠の思いを継ぎ、その後の成功につなげた。

「元気ですかー!」が代名詞の猪木氏が、車いす生活を余儀なくされている。9月、北朝鮮の建国70周年祝賀行事に参加する前に腰を手術。日本に帰国した際の車いす姿は、世間に衝撃を与えた。

猪木氏 昔は13時間の腰、首の手術もやったけど、今回は一番きつかった。今はリハビリ。車いすに乗ったことで、みんなが『長生きしてください、元気で』って言うんだけど、最近兄弟が次々に旅立ったこともあって、今本気で死とどう向き合うかということを考えているんです。

数多く見てきた身近な人の死の中で、特に「衝撃的だった」のが63年12月15日の師匠力道山の死だった。

猪木氏 亡くなったあとに夢にオヤジが出てきたんだよ。『お前、それでいいのか』ってね。64年に米国へ修業に行っても、ときどき出てきた。金縛りにもなった。怖くて、明かりをつけて寝ていたときもあった。それから何十年、もう出なくなったけど、ただ、やっぱりあの世で会ったら、またぶん殴られるのかな。

猪木氏は60年4月、ブラジルでスカウトされ17歳で当時の日本プロレス入り。力道山が亡くなるまで3年半付け人を務めた。

猪木氏 付け人やったから、やたらめったらぶん殴られたわけじゃないが、訓練でたたかれるのは全然問題なかったけど、そうじゃないときのね。もう怨念なんか持ってませんけど。言葉でああしろ、こうしろじゃなくていい生きざまでオレに教えてくれたのが大きいと思いますね。あの人は商売がうまかったけど、オレは反対の生き方。オヤジとは違う生き方をしたいと思っていました。

力道山が亡くなり、兄弟弟子だったジャイアント馬場と猪木氏は、たもとを分かつことになる。

猪木氏 (馬場とは)5歳違いますから。あっちは巨人軍で扱いとか違いますから。そういう意味で(力道山は)後継者づくり、本当に真剣に考えていたんじゃないですか。本家と分家ですよ。本当は、魂は別にして、我々は分家という対立構造ははっきりしていた。

猪木氏が興した新日本と馬場が興した全日本は、外国人の引き抜き合戦など激しい興行戦争を展開。その過程で、猪木はムハマド・アリ戦などの異種格闘技路線や、東京ドーム大会などビッグマッチを仕掛け、力道山の遺伝子ともいえるプロデュース感覚を培った。

猪木氏 最近、(元全日本の)小橋建太と初めて話をしたけど、力道山時代の我々が先輩から聞かされたような話をしていた。それは大事な遺伝子と言えると思う。私は力道山の遺伝子をみんな分かって理解してもらいたいと思うけどね。

今、話題となっている31日、RIZIN14大会でのフロイド・メイウェザー対那須川天心戦をどう見るのか。その試合は、かつて世界中に注目された猪木-アリ戦と比較されるが。

猪木氏 アリ戦のときは、オレこそ世界一だとか、ボクシングとプロレス、どっちが強いのかとか、テーマがあった。そういうテーマがなく、ただただ客寄せのためのパフォーマンスかって感じがするね。

「人を驚かせることが好き」という猪木氏は、来年の抱負を魅力の「魅」と書いた。車いすの上でもまだまだ闘魂に衰えはない。【取材・構成=桝田朗】