力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。
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ザ・デストロイヤー(61)の初来日は1963年(昭38)5月17日のことだった。178センチ、110キロの体は、2メートル6センチのキラー・コワルスキーらを見慣れた当時のファンには小兵に映った。
おしゃれだった。来日第1戦では赤いトランクスに赤い縁取りをした白マスク。第2戦では緑色で統一するなど、コスチュームに気をつかっていた。来日から1週間後の5月24日、東京都体育館で力道山とWWA世界王座をかけて戦った。28分15秒、足4の字固めにも力道山が降参しなかったため、引き分けとなった壮絶な試合だ。小兵ながら侮れない実力。これが余計にデストロイヤーのすごさを助長させた。1万2000人を収容した会場に入り切れなかった観客が、街頭テレビに殺到した。当時のビデオ・リサーチ社調べで視聴率は64%という驚異的な数字が残っている。
戦闘不能になった両者は抱えられて控室へ。デストロイヤーが「おどろいたやつだ。オレの4の字固めでギブアップしなかったのは、あいつが初めてだ」と言えば、力道山も「東郷が引っ繰り返れと教えてくれなかったら大変だった」と語っている。この死闘は、足4の字固めとともに、日本人の心に深く刻み込まれることになった。
この試合は、デストロイヤー自身にも大きな影響を与えた。日本のプロレスなど三流と思って来日したが、ふたを開けてみると、意外や実力者ぞろい。プロレス人気も高く、日本を中心に試合をしてみよう、との気持ちが強くなった。日本に重点を置いたシリーズ参戦が始まった。
この日本参戦が、デストロイヤーに大きな試練を与えた。当時から流れの早い米プロレス界では、次第にその名前も風化していった。巻き返しを図るには、本名のディック・ベイヤーからデストロイヤーに変身した時のように、大きなイメージチェンジが必要だった。ヨーロッパに新天地を求めて転戦。ドイツのトーナメントで活躍すると米国に戻りマスクマンのドクターXとして、再度売り出しを図った。
68年8月にバーン・ガニアからAWA認定世界ヘビー級王座を奪い、再びトップレスラーの仲間入りを果たしたのだ。今でも、米国ではデストロイヤーよりも、ドクターXとしての方が通りがいい。その間も日本では依然としてデストロイヤーで通した。ザ・インテリジェンス・センセーショナル・デストロイヤーと呼ばせたがった男は、状況に応じた変身という形で修士レスラーの知恵を遺憾なく発揮していた。 【川副宏芳】
◆両者とも戦闘不能でレフェリーストップ 63年5月24日・東京都体育館、デストロイヤー対力道山戦VTR WWA王座奪回を狙う力道山が、序盤からチョップで攻め込んだ。だがデストロイヤーも凶器をマスクに隠して頭突き、かみつきの反則攻撃。額を割られた力道山は、空手チョップで場外に落とすと、パンチ、チョップで猛反撃。だが、無抵抗を装っていたデストロイヤーに足4の字固めを決められてしまった。インターナショナル王者の意地にかけてもギブアップのできない力道山は耐えた。試合は無制限1本勝負。10分間に及ぶ絞め合いにブレークが入り、2分間の休憩が入ったが、その後両者は立って戦いを続けられる状態でなく28分15秒、レフェリーストップの引き分け試合となった。