タイソン東京Dの衝撃 日本ボクシングのビッグバン

90年2月、WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチの10回、マイク・タイソン(右)はジェームス・ダグラスの強烈パンチでダウンを喫しKO負けする

<平成とは・バトル編(1)>

日本ボクシング界は7人の世界王者を抱えて、令和時代の幕開けを迎える。現役世界王者不在で始まった平成元年から30年。日本は世界屈指のボクシング大国に躍進した。「平成とは」バトル編のスタートはボクシングで3回連載する。第1回は元統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)の東京ドーム防衛戦から平成の時代を検証する。

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昭和から平成に変わるころ、日本ボクシング界は冬の時代だった。88年(昭63)、89年(平元)の年間最優秀選手は該当者なし。89年は1年を通して現役世界王者がいなかった。日本のジム所属選手の世界挑戦は、88年1月から実に21連続失敗。世界戦のテレビ中継も夜から休日の昼間の時間帯へと移行しつつあった。

そんな時代に世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)は、日本にやってきた。88年3月21日、東京ドームでトニー・タッブス(米国)との防衛戦が実現した。興行した後楽園スタヂアム(現東京ドーム)の当時の興行企画部長で、日本ボクシングコミッション理事長の秋山弘志(81)は「最高10万円のチケットが2、3日で完売した。衝撃的だった」と回想する。会場は5万1000人の大観衆で埋め尽くされた。試合はタイソンの2回KO勝ち。総売上15億円は1日の興行として今も最高という。

デビューからKOの山を築き、無敗のまま3団体の世界王座を統一したタイソンは、あのムハマド・アリと並び歴代最強と評されていた。1試合の報酬が10億円を超える世界で最も稼ぐスポーツ選手で、試合はカジノでも収益が見込めるラスベガスなど米国内の一部に限られていた。タッブス戦は初めて米国以外で開催された防衛戦だった。

「完成した東京ドームを世界に広めるため、こけら落とし興行として企画したのでそれなりの資金は用意した」と秋山は振り返る。それでも交渉は難航した。暗礁に乗り上げかけた時、業界に人脈を持つ帝拳ジムの本田明彦会長がプロモーターに名乗り出た。「失敗したら私は辞職する覚悟だったが、交渉を本ちゃん(本田)に任せたら、とんとん拍子にうまくいった」。

90年2月11日、再び東京ドームでタイソンの防衛戦を実現させた。しかし、最高15万円に設定したチケットは伸び悩んだ。勝って当たり前の試合に、財布のひもが固くなった。ところが、この試合でボクシング史に刻まれる「世紀の大番狂わせ」が起きる。挑戦者ジェームス・ダグラス(米国)に、タイソンが10回KOで初めて負けたのだ。

中継した日本テレビで解説をした元WBC世界スーパーライト級王者の浜田剛史(58)は「タイソンは練習でダウンするなど調子が悪かった。アナウンサーの“時代が変わった”という言葉を覚えている。その試合を日本から発信したことは大きいと思った」と今も鮮明に記憶している。試合は米国をはじめ世界50カ国以上に放送されていた。

国内の視聴率は昼間の試合にもかかわらず38・9%(ビデオリサーチ調べ)。KO負けの瞬間は51・9%を記録。その衝撃が冬の業界に“ビッグバン”を起こした。国内の試合にも観客が押し寄せ、ジムの練習生が急増。91年のプロテスト受検者が88年の1・5倍に増えた。「タイソンはボクシングファンも、そうじゃない人も引きつけた」と浜田は言う。タイソン敗戦の4日前にWBC世界ミニマム級王座を奪取して、平成初の世界王者になった大橋秀行(54)は「タイソン戦の前後、普通の10回戦の興行でも後楽園ホールが超満員になった。ブームが来たと思った」と証言する。

一方で日本の国際的な評価も高まった。「世界の日本を見る目が変わった。試合の解説で米国に行くと対応も全然違った」(浜田)。海外との太いパイプができたことで日本選手の世界戦の興行数も急増。87年には年間5試合まで落ち込んでいたが、辰吉丈一郎が「浪花のタイソン」の異名で一気にスターに駆け上がるなど、92年には19試合に増えて世界王者も5人になった。94年12月の辰吉-薬師寺戦の視聴率は39・4%。タイソンの数字も超えた。

タイソンが東京で王座を失った半年後、日本初の民間衛星テレビ(WOWOW)の放送衛星が打ち上げられた。91年4月に本放送を開始する同局が、開局PRの目玉に選んだのがタイソンだった。復帰第2戦から独占契約で生中継した。チーフプロデューサーの大村和幸(59)は「ビジョンは世界最高峰を伝える。そこでタイソンに目をつけた。負けたとはいえ、知名度と実力は圧倒的だった」と振り返る。

番組名は「エキサイトマッチ」。タイソン戦のほか、毎週2時間枠で、世界で年間約120試合開催されていた世界戦のうち100試合以上を放送した。「当時、ドン・キングら米国3大プロモーターは、それぞれテレビ局が分かれていた。本田会長に交渉をお願いしたらその壁を超えて放送権を獲得できた。これは世界初の画期的なこと。タイソンをプロモートした信頼と人脈のおかげです」と大村は話す。

現在も続くこの同局最長寿番組は、日本人ボクサーのレベル向上に大きく貢献した。「あの番組で日本選手のレベルが飛躍的に上がった。毎週、世界一流の技術を映像で見て、選手がまねするようになった。日本のボクシングを強くした一番の要因」と大橋は分析する。「学生時代から番組を見ていた村田諒太が、俺のトレーナーはエキサイトマッチでしたと言ってくれた」と大村も明かす。

現在、日本の男子の現役世界王者は7人。王座が2団体から4団体に増えたとはいえ、世界王者の数で世界のトップ3に入るボクシング大国へと躍進を遂げた。選手のレベルも向上したが、浜田は「力があるときにチャンスがなければ王者になれない。世界戦という舞台を数多くつくれるようになったプロモートの力も大きい」と話す。

昨秋、元世界ヘビー級王者が東京ドームを訪れた。彼の名はジェームス・ダグラス。あの「世紀の大番狂わせ」を振り返る、米国のテレビ番組の収録だった。インタビュー出演した秋山がしみじみと言った。「いまだに世界で語り継がれている。タイソンの試合を日本で興行した効果は計り知れない」。あのビッグバンの衝撃波は今、令和の時代に達しようとしている。【首藤正徳】(敬称略)