異質な飯田覚士 TV企画、部活の延長から世界王者

平成のボクシング界について語る飯田覚士さん

<平成とは・バトル編(2)>

平成が幕を開けて間もなく、日本ボクシング界に異質なボクサーが現れた。後にWBA世界スーパーフライ級王者になる飯田覚士である。90年(平2)、日本テレビのバラエティー番組「天才たけしの元気が出るテレビ!!」の“ボクシング予備校”という企画に、プロテストを目指す練習生の1人に選ばれた。

当時、飯田は岐阜経済大3年。「ボクシング部でしたが、ツアーコンダクターになりたかったので、プロになるつもりはなかった。練習に物足りなさを感じていたのと、テレビに出れば思い出になると思って応募した」。どこにでもいる普通の大学生で、ボクサーらしからぬ甘いマスクにきゃしゃな体形。そのギャップがボクシングと無縁の若い女性のハートに響いた。

日曜の夜に放送される平均視聴率15%の人気番組で、定期的に成長ぶりが紹介されると、飯田の人気は沸騰した。90年9月の大阪城公園での公開スパーリングには1万人を超えるファンが殺到した。テレビ局の意向に応じて番組内で「チャンピオンになる」と公言していたため「引くに引けなくなった」と飯田。翌91年3月にプロデビュー。翌年の全日本新人王決勝戦には8000人の大観衆が詰めかけた。

昭和の時代、ボクシングには怖い、痛い、危ないというイメージが根強くあった。その象徴が昭和40年代に大ヒットした漫画「あしたのジョー」。貧しい不良少年が拳ひとつでのし上がっていくストーリーで、実際に漫画を地でいくボクサーも多かった。飯田はそんな近寄りがたかったボクシングを、部活の延長のような身近な存在に変えた。飯田自身「パンチパーマなどのいかつい格好で相手を威嚇するのは嫌だった」という。

この頃から飽食の時代に敬遠されつつあったボクシングジムに「僕も挑戦してみよう」と若者が足を向け始めた。飯田が全日本新人王になった翌年度には、100人台だった新人王のエントリーが265人と急増。マイク・タイソンの2度(88、90年)の東京ドーム防衛戦など複合的な要素も重なり、89年に1200人だったプロボクサーは年々増加し、06年には3200人にまで膨れあがった。

もうひとつの要因が89年から現在まで続く「少年マガジン」(講談社)の人気漫画「はじめの一歩」(森川ジョージ著)。いじめられっ子の主人公がボクサーに救われ、自らボクサーとして成長していくストーリーが、平成の若者に圧倒的な支持を受けた。元WBA、IBF世界ライトフライ級王者の田口良一をはじめ、この漫画に刺激を受けてボクシングに興味を持った世界王者も多い。

彼らは根性論が主流だったジムの練習にも新風を吹き込んだ。「根性で勝つんじゃないと自分に言い聞かせてサプリメントをとったり、インナーマッスルや動体視力も鍛えた」と飯田は回想する。元WBC、WBA世界ミニマム級王者で大橋ボクシングジム会長の大橋秀行は「今は昭和の時代と練習方法も食事も180度違う。八重樫東(世界3階級制覇王者)は科学的な筋トレを取り入れて、脂を抜いた食事を心がけている」と明かす。

飯田は世界挑戦2度失敗後の97年12月、ヨックタイ・シスオー(タイ)を判定で下してついに世界王座を奪取。2度の防衛にも成功した。普通の大学生が世界王者にたどりついて気付いたことがある。「根性論が嫌いで、科学的なトレーニングを存分にやった。でも結局、ボクシングは最後はど突き合いなんです。流血しようが構わず打ち合う。行き着いた先は、ストイックで己の身を削らないと勝てない過酷なスポーツでした」。時代は移ってもボクシングの本質、世界の頂点への厳しい道のりに変わりはない。【首藤正徳】

(敬称略)