新日本50周年 アントニオ猪木氏「闘魂」は己のみに打ち勝つこと プロレスと未来への思い語った

インタビューに応じるアントニオ猪木氏(コーラルゼット株式会社提供)

新日本プロレスは3月6日に旗揚げ50周年を迎える。創設者は今年2月20日に79歳を迎えたアントニオ猪木氏。72年に団体を旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など、数々の名勝負を繰り広げた。

近年は2度の腰の手術に加え、心臓の難病を罹患(りかん)。リングを下りてからも己との闘いを続ける「燃える闘魂」に、プロレスと未来への思いを聞いた。【取材・構成=勝部晃多、桝田朗】

-19年秋から指定難病「心アミロイドーシス」の闘病を続ける。現状は

「『年をとっても元気な年寄りでありたいな』と思っていたんだけど、現実には病も含めていろいろと(理想とは違う)。今まではリングの上の戦い、人生の戦いだったのが、そうじゃなくなってしまったのが(残念)。でもね、ある程度は試練というか、そういったものをもらっているのかなと自分なりに解釈して頑張っています」

-72年に新日本プロレスを旗揚げしてから50年。「50」という数字について思うこと

「あんまり年の話をしたことがなかったので、どうかな…。でも、人の一生というのは早いなあと感じる。コロナとかもあって、そういう意味では逆にいろんなことを教えられるというか、いろんな角度から人生観を考える。だから、50周年は俺にとって早いか遅いかで言うと、早いです」

-新日本プロレスでは常に先頭に立ち、ムハマド・アリとの異種格闘技戦など、さまざまな挑戦をしてきた

「経営とは自分が先頭になって立ち上げるという意味ですが、実際にはそれと同時にみんなが手となり足となって動いてくれたおかげですね。時代によっては本当に「放漫経営」とかそんな感じで言われる中で、新日本が危機に直面して…。俺がプロレスに専念して、そこに集中してさえいれば、本当に安泰の会社だったかもしれない。そう思うと(残念)。でも、それも人生だからしょうがない」

-現在の新日本プロレスをどのように見ている

「(離れた後は)あまりプロレスを見ないようにしていました。現実に起きている変化は、俺にとって自分の思っているプロレスとは違う方向だったから。でも、最近はそれも小さなことだったな、と。もっともっと大きな懐で(見ないといけない)。時代時代に深く沿って、全てのプロレスが永遠に発展していくようにと願っております」

-ストイックに強さを追求する「ストロングスタイル」を掲げた。その志は今も生きている

「簡単に言うと『イズム』ですね。力道山師匠によってアメリカのプロレスがリニューされ、形が変わった。(力道山が)亡くなった後にも、俺たちが異種格闘技を含めて、今までの殻を破ってね(変化させた)。ただ、それをはたから見ていれば『何をやっているんだ、猪木は』と(思われた)。今の俺も同じようにプロレスをそういう目で見ている部分があるから。否定だらけの人生で(自身も)『あれはいけません。これがいけません』と言ってきたけど…。そういう中でも、なぜか絶対になくならないものというか、変わらないものがある。それは『闘争心』『闘争本能』だと思うんですね。だから、これからは次のプロレスの時代。それはそれで楽しみに思っています」

-これからを引っ張っていく後輩たちに伝えたいこと

「昔は『猪木と会ってはいけない』とか、いろいろ言われていたらしいんだけど、今は何人か若い選手が自由にやってきてくれる。彼らの話を聞いていると『甘いな~』と思うこともある半面、俺らがなくしてはいけない夢を、形は違えど持っているな、と。燃えている若い選手がいるのでうれしく思っています」

-未来のプロレス界に期待すること

「やっぱり『闘魂』という文字を(昔からモットーとして)色紙に書いていますが、これは相手との戦いという意味だけではない。相手と戦うことも大事ですが、戦う魂というのは、逆に言えば己に向けて。己のみに打ち勝つことというか、そういう部分があるんですよね。そういうことを戦いを通してファンにメッセージとして送ってくれればいいんじゃないかなと思います」

◆アントニオ猪木 (本名・猪木寛至=いのき・かんじ)1943年(昭18)2月20日、横浜市生まれ。中学2年時にブラジルに移住。17歳で力道山にスカウトされ日本プロレス入りし、60年9月にデビュー。72年3月に新日本プロレスを旗揚げ。柔道五輪金メダリストのウィレム・ルスカ(オランダ)、プロボクシング世界王者ムハマド・アリ(米国)らとの異種格闘技戦でも注目を集める。89年に業界初の東京ドーム興行。同年に参院選に初当選。98年に引退試合。10年に日本人レスラー初のWWE殿堂入りを果たした。

◆猪木氏の近況 20年7月にSNSで、タンパク質線維が心臓に沈着して機能を低下させる難病「心アミロイドーシス」に侵され、前年秋頃から闘病生活を送っていることを明かした。21年1月からは腰や腸の治療で長期入院。一時はやせ衰えて弱音を口にすることもあったが、8月に退院。1月の新日本東京ドーム大会にはビデオメッセージを寄せた。自身のYouTubeチャンネル「最後の闘魂」で近況を発信。

<アントニオ猪木と新日本プロレス>

◆離脱 66年4月に、日本プロレスから離脱して豊登らとともに東京プロレスを旗揚げ。その破産にともない、日本プロレスに復帰したが、団体内での確執などで71年に追放処分を受ける。

◆旗揚げ 72年1月に山本小鉄らとともに、新日本プロレス株式会社を設立。同3月6日に大田区体育館(現大田区総合体育館)で旗揚げ大会を行った。メインでは、カール・ゴッチがアントニオ猪木に勝利した。

◆隆盛 ストロング小林、大木金太郎らのビッグネームとの対戦や、WWWF(現WWE)との提携による有名外国人レスラーの参戦により、隆盛を極める。

◆異種格闘技路線 プロレス最強を唱え、ストロングスタイルを掲げる猪木は、自身の最強を証明するため異種格闘技路線へ突き進む。76年2月に、ミュンヘン五輪柔道無差別級金メダリストのウィリアム・ルスカと対戦。同年6月にボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリとの対戦を実現させ、世界にその名をとどろかせた。

◆東京ドーム 89年4月24日、プロレス界初の東京ドーム興行を実現させる。柔道ミュンヘン五輪金メダリストのチョチョシビリと異種格闘技戦を行い、裏投げで左肩を脱臼し、異種格闘技戦で初の黒星を喫した。この大会を皮切りに、新日本プロレスは全国のドーム会場で試合を実施。毎年1月4日の東京ドーム大会は新日本最大のイベントとして定着している。

◆現役引退 98年4月4日、東京ドームでドン・フライ戦を最後に現役を引退。引退後は、UFO、IGF、ISMなど団体を立ち上げ、プロデューサーとして活動。K-1やPRIDEに選手を送り込み、格闘技路線でも存在感を示す。

◆身売り 05年11月、新日本プロレスは人気低迷で経営難に直面し、猪木が保有していた株式51・5%をゲーム製作・販売会社ユークスに売却。子会社化された。猪木はオーナーから降り、新日本との関係を絶った。