“過激な仕掛け人”と呼ばれた、元新日本プロレス専務取締役営業本部長で現ストロングスタイルプロレス会長の新間寿(しんま・ひさし)さんが21日午後6時47分、都内の自宅で死去した。90歳だった。
アントニオ猪木の右腕として知られ、今年2月に82歳で亡くなった永島勝司さんの前の参謀だった。
中大卒業後、サラリーマン生活を経て1966年(昭41)に猪木さんをエースにした東京プロレスの設立に参加して、生涯続く猪木さんとの縁がつながった。
72年に猪木さんが設立した新日本プロレスに入社。76年にアントニオ猪木対ムハマド・アリのプロレスとボクシングの異種格闘技。81年には佐山聡を初代タイガー・マスクに変身させて新日本プロレスブームを巻き起こした。
83年に新日本プロレスのクーデター未遂事件の責任を取って退社。84年には第1次UWFを設立したが、期待した猪木さんの参戦がかなわずに翌85年に活動休止した。
記者が、プロレスファンとしてではなく、取材者として新間さんと出会ったのは、89年(平元)に猪木さんがスポーツ平和党から参議院議員に立候補した時だった。
「本部長」「会長」などいろいろな肩書で呼ばれた新間さんだが、記者はスポーツ平和党の「幹事長」と呼んでいた。その後、プロレス担当になってリアルジャパンの会場で会っても、一番しっくりくる呼び方が「幹事長」だった。
猪木さんの思いを受けて設立した第1次UWFが、85年に休止。プロレス界、猪木さんとも縁が切れていたと思っていただけに、スポーツ平和党設立で新間さんが登場した時はびっくりした。
だが、新間さんは“愛するアントニオ猪木”のために再び働ける喜びに満ちあふれていた。スポーツ新聞に“社会面”が誕生したばかりで、一番活気があった頃だった。永田町にあったスポーツ平和党本部に毎日の様に通って「アントニオ猪木候補」「アントニオ猪木参議院議員」について取材するのだが、折に触れて話してくれるプロレス秘話がたまならなかった。
イケイケドンドンで、どんな質問にも答えて、トラブルも助けてくれた新間さんだが、1度、激怒されたことがある。猪木議員のことで確認したいことがあって、午後10時近くに自宅に電話した。早版の次のメインになる締め切り時間だった。
ケータイなどない時代、家人が取り次いでくれて不機嫌そうに電話に出てくれた新間さんは「君は何を考えてるんだ。もう、午後10時だぞ。常識がないのか」と一喝された。そして、その後に詳しく質問に答えてくれた。
次にあった時に謝ると、ニヤリと笑いながら「ちょうど寝入りばなだったからな。また、分からないことがあったら電話しなさい」と言ってくれた。
その後も猪木さんとは、けんか別れしたり、くっついたり。ほれた者の弱みで、猪木さんとの関係がいいとご機嫌だった。14年前にあこがれのプロレス担当になって再会した。
ここ10年くらいは“新間幹事長”の姿をお見かけするのは、初代タイガーマスクの佐山聡の関係。佐山自身が尊敬されるレジェンドなのだが、自分を世に出してくれた新間さんに対する敬意の表し方が素晴らしかった。
怒ったり、感激したり、説教したり。新間さんは、いつも真剣勝負の人だった。天国では、大好きな猪木さんとゆっくりと話してください。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。【89年スポーツ平和党担当、11~12年プロレス担当=小谷野俊哉】