日米のマットで活躍したプロレスラーで「超人」と言われたハルク・ホーガンさんが24日、死去した。午前9時21分に医療関連の通報を受け、消防隊と警察が米フロリダ州クリアウォーターのホーガンさんの自宅にかけつけた時には心停止状態。そのまま近隣にあるモートン・プラント病院に搬送されたが、午前11時17分、死亡が確認されたという。
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「最初はでくのぼう。オレと出会って変わったよ」。米国でスーパースターになったハルク・ホーガンさんについて語る時、アントニオ猪木さんの笑顔はどこか誇らしげだった。
20代半ばでプロレスデビューしたホーガンさんは、2メートルを超える巨体とボディービルで鍛えた怪力が売り物の“筋肉おばけ”だった。真のプロレスラーへと化けたきっかけは新日本プロレスのリングだった。
80年から85年にかけて20回来日。82年からは日本人陣営に加わり、多くの日本選手と同じ黒いショートタイツを着用して、猪木さんの元でレスリング技術から受け身、間合い、試合運びまでプロレスの基本を学んで急成長した。83年6月に猪木さんを激闘の末にKOした、あの有名なIWGP優勝決定戦は、その後の躍進の出発点でもあった。
翌84年に全米進出したWWF(現WWE)のエースに指名されると、黄色い派手なタイツに変えて、日本のプロレスとは異質のショーマンシップに徹したアメリカン・プロレスの主役に君臨した。
90年代に再び来日したホーガンさんを何度か取材した。印象的だったのが91年4月の神戸での谷津嘉章とのWWF王座防衛戦。入場時に黄色いタンクトップを引きちぎって、ビルドアップされた上半身をむき出しにしてみせた以外“米国流”パフォーマンスを封印したからだ。
最後は必殺のアックスボンバーで仕留めたが、途中でグラウンドの展開に持ち込み、腕ひしぎ逆十字固めなどの地味なレスリング技術で、アマレス出身の挑戦者を圧倒して会場を沸かせた。「寝技がうまかったから慌てたよ」とは試合後の谷津の弁。
ファンが何を求めているかを敏感に察して臨機応変に実践する。その引き出しの多さと、器用さがホーガン人気の要因だと思った。そして、その土台には日本で学んだプロレスがあるのだと確信した。
「米国のように大騒ぎしないが、試合を冷静に、正当に評価してくれる」と日本のファンにも好感を持っていた。異文化を受け入れて学ぶ度量の大きさがあった。日米のプロレス文化の違いを超えて支持されたプロレスラーだった。【首藤正徳】