元横綱佐田の山死去「柏鵬」に割って入った闘魂横綱

65年3月、土俵入りする佐田の山

 大相撲の元横綱佐田の山で、日本相撲協会の7代目理事長を務めた市川晋松(いちかわ・しんまつ)氏が4月27日、肺炎のため東京都内の病院で死去したことが1日、分かった。存命する元横綱では最年長だったが、79歳で天国へ旅立った。故人の遺志により、既に葬儀は都内の自宅で親族で行った。協会関係者によると、今年からは心筋梗塞を患い、入退院を繰り返していたという。

 長崎県出身の市川氏は、56年(昭31)初場所に初土俵を踏んだ。激しい突き、押しで頭角を現し、61年初場所に新入幕を果たすと、幕内3場所目で平幕優勝。それまでの「平幕優勝力士は横綱になれない」というジンクスを破った。3度目の優勝を飾った65年初場所後に第50代の横綱に昇進。「柏鵬時代」のただ中で、大鵬と柏戸の両横綱の間に割って入った闘魂の力士だった。

 大鵬の32度には及ばないが、6度の優勝は柏戸の5度を上回った。182センチ、約130キロと体格的に両横綱に劣ったが、激しい上突っ張りからの果敢な攻めが身上。ある時、横綱同士の一番で勝った後、報道陣から「おめでとう」と声を掛けられ、顔を真っ赤にして「俺だって横綱だ!」と叫んだ話に気性の激しさが表れていた。

 横綱在位は19場所。68年春場所で現役を退いた。引退後は年寄「出羽海」を襲名して出羽海部屋を継承。横綱三重ノ海らを育てた。協会では92年から3期、6年にわたり理事長を歴任。外国人力士の入門規制、巡業の自主興行への変更などに着手。3期目からは協会運営に専念するため名跡を「境川」に変更し、部屋を元関脇鷲羽山に譲った。

 96年には年寄名跡を協会に帰属させ、名跡の売買を禁じるなどの改革案を提示。だが中堅や若手親方らの賛同を得られず、98年に理事長を退任した。00年には理事長経験者としては異例の審判部長に就任。03年2月に中立親方として相撲協会を定年退職した。

 昔かたぎの人らしく、市川氏の2代後に師匠として部屋を継承した現出羽海親方(元前頭小城ノ花)は「定年されてからは表に出てくる方ではなかった。部屋を継がせてもらってから1度もお会いしたことがなかった」という。弔問に訪れたり出棺を見送ったのも、現在と先代の出羽海親方、境川親方(元小結両国)ら限られた関係者だけで、周囲に配慮する故人の遺志が尊重されたようだ。