社会現象に…大相撲を世にしらしめた「若貴ブーム」

92年1月27日付日刊スポーツ東京最終版

<平成とは・大相撲編(1)>

平成は「若貴時代」とともに始まった。大横綱千代の富士が君臨していた大相撲界に、新時代を担う宿命を背負った兄弟力士が登場した。若花田(のちの若乃花)と貴花田(のちの貴乃花)。父は元大関貴ノ花で、期待にたがわず番付を駆け上がり、日本中を熱狂させた。「平成とは」大相撲編(3回)の第1回は、社会現象となった「若貴ブーム」を振り返る。

   ◇   ◇   ◇  

平成4年(1992年)1月26日午後5時。固唾(かたず)をのんで土俵に注目していた日本中が、その瞬間に沸き上がった。

大相撲初場所千秋楽。東前頭2枚目の貴花田は三杉里を寄り切り、14勝1敗で初優勝を飾った。19歳5カ月、史上最年少の幕内優勝。この場所、日刊スポーツ(東京版)は15日間、1面をすべて相撲で貫いた。歴史的快挙は号外で報じた。日刊スポーツの号外発行は77年11月22日、江川卓の「クラウンライターが1位指名」以来だった。

若貴兄弟は88年春場所、初土俵を踏んだ。「プリンス」と呼ばれ、人気だった元大関貴ノ花の2人息子。入門した時点で人気と角界の未来を担う宿命だった。ともに順調に番付を駆け上がる。特に貴花田は89年九州場所で17歳2カ月の新十両、90年夏場所で17歳8カ月の新入幕と次々最年少記録を更新。甘く精悍(せいかん)な見た目で強い。人気は必然だった。

時代が求めていた。大横綱千代の富士が長らく頂点に君臨する角界は、人気が停滞していた。そこに登場したのが父貴ノ花、おじに元横綱初代若乃花を持つ期待の兄弟。加えて「弟を守るために入門した」という若花田との兄弟愛。名門一家の物語は性別、世代を超えて人の心を引きつけた。91年春場所の貴花田対小錦の瞬間最高視聴率は驚異の52・2%(ビデオリサーチ調べ)。主婦層がターゲットのワイドショーも連日、兄弟を追いかけた。

社会現象ともいえるフィーバーは貴花田の初優勝後、さらに過熱した。92年春場所前。大阪入りする際は羽田空港でタクシーを機体に横付けし、到着した大阪空港ではVIP出口から脱出した。東大阪市の宿舎はひと目見ようと連日、ファンが取り巻く。狭い道路脇に最高500人。巻き込まれた高齢女性が転倒し、骨折する事故も起きた。そんな周囲を冷静に見つめた若花田は「昨年(の春場所で)、光司が11連勝してからパニックが始まったんだよな。俺も表に出られないかな」とつぶやいたという。

不器用で表現が下手な弟と器用で明るい兄の構図も、分かりやすかった。フィーバーの最中、しゃべりが苦手な弟を守るべく若花田は「俺が全部対応する」とマスコミの前に立った。ただ、貴花田は自身の人気に無頓着だった。当時を取材していた記者が述懐する。

「買い物に付き合ったこともあったが、ワーワーされてもまるで気にしない。こっちがひやひやするぐらいだった。プライベートでは付け人をつけなかった。『自分の召し使いじゃない』と。(関取になった)当時は17、18歳だったけど、芯はしっかりしていた」

順調な出世はただ、天分に恵まれただけではなかった。貴花田の新十両昇進時、「今までで一番後悔していること」の質問に「(明大中野)中学時代、クラスのいじめられっ子を助けられなかったこと」と返した。そんな卓越した精神面に、見る人が「殺し合いかと思うぐらい」の猛稽古。裏側には血へどを吐くほどの壮絶な努力があった。

新弟子検査に史上最多160人が殺到したのも92年春場所。貴花田は同年11月に女優宮沢りえとの婚約、そして年明けに破局。常に話題の、時代の中心にいた。そんな立場に置かれた状況を横綱になった貴乃花に聞いたことがある。

「孤独なもんです」

89年九州場所11日目から始まった史上最長の大入り満員は97年夏場所2日目、666日でストップした。「兄弟絶縁」や「洗脳騒動」。土俵外に注目は移り、貴乃花は孤立感を深めていった。親方としても。

平成最後の年、兄弟2人とも日本相撲協会を去っている。賭博、暴力問題に大揺れした国技も今、人気は隆盛を誇る。ただ「若貴」のような強烈な個は現れていない。平成の世に一時代を築いた。「大相撲」を幅広く知らしめたのは、何よりの功績。その土台があって、大相撲は令和の新時代を迎える。(敬称略)【実藤健一】