朝青龍の知られざる素顔「横綱、モンゴルで食べたオオカミ忘れません」元付け人神山が語る

神山(左)と高砂親方(元関脇朝赤龍)朝乃土佐(左から3人目)と朝花田の同期4人衆(本人提供)

大相撲高砂部屋が引退を発表した神山多呂平太(41=本名・笹川裕太、最高位は西三段目30枚目)は、第68代横綱朝青龍の付け人だった。

一時代を築いた朝青龍は、多い時で6人の付け人を従えた。不祥事によって朝青龍は追われるように角界を去り、付き人も次々とまげを落とした。当時の仲間はいなくなった中、土俵を務めてきた神山にも、終わりの時が来た。

昨年の九州場所をもって、中卒で飛び込んだ相撲人生はピリオドを迎えた。今は「麺屋こころ」(大岡山本店)で修業中。いずれ店を任される日を夢見て厨房(ちゅうぼう)に立つ。

決して冗舌ではない。朝青龍の思い出はたくさんあるはずだが、自分から話そうとしない。話せないこともたくさんあるのだろう。

ましてや、型破りで、何をするか分からない最恐横綱だ。神出鬼没で疾風のよう。まるで竜巻のような横綱。その付け人だ。表に出ないところで、どんな困難があったか想像に難くない。

一見するとこわもての神山は、担当記者の動きを少し離れたところからじっと見ていた。当初、朝青龍に命じられて見張っていたのかと思っていたが、本当は違った。

気が荒い朝青龍は集中できないとイライラすることが多かった。気持ちをコントロールできなくなると周囲を鋭い眼光でにらみつける。不注意なマスコミが必要以上に近づけば、ボクサーが間合いを詰めてくるよう、威嚇するように迫ってきた。言い方は悪いが熊のようなどう猛さ。格闘家として抜群の運動能力を備えていた。

神経が過敏になっている朝青龍と報道陣がトラブルにならないよう、神山は担当記者を陰ながら守っていたのだ。不用意に近づく記者がいれば、さっと記者と横綱の間に入り、無用な衝突を未然に防いでくれていた。

40歳を過ぎても現役だったのは、高砂親方(元関脇朝赤龍)とは同い年で、気心が知れた間がらだったからだ。師匠と弟子という関係ではあったが、隅々に気が利く神山を、親方は頼りにしていた。

いつかはまげと別れを告げる時が来ると神山も覚悟はしていたが、時は流れて41歳。さすがにもう、潮時だ。そっと土俵に別れを告げた。

左右握力90キロの怪力で、得意は右四つからの寄り。188センチ155キロの巨漢は、朝青龍の支度部屋での立ち会い稽古の相手であり、だれよりも横綱のぶちかましを全身で浴びてきた。

神山 本当はそれを自分の相撲に生かさないとダメだったんですよね。でも、当時は日々の横綱の身の回りを完璧に整えることで精いっぱいでした。言い方はちょっと大げさですけど、その日を生き抜くだけで限界でした。

本割までの流れが悪かったり、取り口が納得いかないと、朝青龍は熊にもなり、虎にもなった。手が付けられない。その怒りの矛先が自分に向けられるかもしれない恐怖は、付け人をしたお相撲さんでなければわからないだろう。

神山は2月18日の断髪式(会場=東天紅・上野本店)を待つ。まげを落とす前に、朝青龍との思い出を聞いた。「皆さんが聞いておもしろい話なんてないですよ」。相変わらず礼儀正しく控えめ。でしゃばることとは無縁だった。まだまげがついている間に少しでもと、話をつないでいると、本当に恥ずかしそうに話してくれた。

2005年、高砂部屋はモンゴル合宿を行った。その日、稽古へ出発する15分前に集合場所に朝乃土佐と2人で行くと、そこへ稽古中止をいち早く聞いた横綱の運転する車が、猛スピードで滑り込んできた。

ドアを開けて、朝青龍は2人に「乗れ」とだけ言うと、そのまま自宅に連れて行った。「状況がわからない僕らは、ほとんど連れ去られたようなものです。どうすることもできませんでした」。

部屋に入ると、朝青龍の母親がいた。2人は何かを話すと、朝青龍は冷蔵庫を開け肉の塊を出した。塩ゆでされた肉を、鮮やかな手つきでナイフでひと口大に切り、2人に「口を開けろ」と言い、肉片をほうり込んだ。「食え」。

目を白黒させながら必死にえたいの知れない肉をかみ砕き、何とか飲み込む。「ごっつぁんです。横綱、なんの肉ですか。馬ですか?」。すると、ニヤニヤしていた朝青龍は「オオカミだ」と言った。

神山 僕ら、オオカミを食べたんです。もう、びっくりして。そういえば、横綱はよくモンゴルに帰ると狩猟に出て、オオカミを自分で撃ってました。『オオカミの肉は体にいいんだ』って。

気になる味について、神山は正直に教えてくれた。「砂消しゴムです。まあ、砂消しゴム食べたことなんてないですもんね。僕もないです。でも、イメージです。ざらざらしてて、脂身もなくて、かみ砕くの大変でした」。

オオカミを食べた日本人なんてほとんどいないだろう。食文化、風習も日本とは何もかも違った。日本では流れ星を見れば、それは吉兆。「星に願いを」なんて、ロマンチックな話しになるが、モンゴルでは流れ星は不吉な予兆だった。

「空を落ちていく星は不吉で、それを見た直後は『あれは俺の星じゃない、ほかの人の星』と言いながら、ペペッとつばを吐くんだ」。これも朝青龍が教えてくれた。

車で走っていて、視線の先を黒猫が横切るとUターンしてその道は絶対に通らない。「二度とこの道は通るな」と、運転手に命令した。勝ち運をとても大切にしていた。

西でも、東でも支度部屋のもっとも奥が横綱の定位置だった。実は、朝青龍は支度部屋のもっとも奥にある「壁」に畏怖の念を持っていたと、神山は教えてくれた。

神山 横綱が言うんです。『あそこには何か居る。神様がいる』って。それで、取り組みを終えて、取材も終えて、身支度を調えて、最後の最後に帰る間際、横綱は必ず壁を向いておじぎをしていました。勝っても、負けても、どんなに気がたって荒れていても、それだけは絶対に忘れなかったんです。

神山が教えてくれる、モンゴル最恐横綱の姿は新鮮で、やはり神秘に満ちている。朝青龍が引退してしばらくして、ある関取の昇進パーティーで朝青龍とばったり顔を合わせた。思わず神山は「横綱、もう次いつ会えるかわかりませんから、写真を撮りましょうよ」とお願いした。

すると朝青龍は「いつ会えるかわからないって、なんだよコノヤロー」と言いながら、ツーショットに応じてくれた。

そんな朝青龍は大関時代、初優勝した夜に何か思いつくとボールペンで封筒の表に「おめでとう」と書いて、付け人に次々と封筒を渡してくれた。中身は朝青龍からの祝儀だった。

神山 こっちがおめでとうございますなのに。おもしろい瞬間でした。何かひらめくものがあったんでしょうね。でも、僕がモンゴルの言葉を1から覚えることを考えたら、横綱の感性というか、言わんとすることは何となく伝わりました。優しい瞬間もあるんです。めったにないんですけど…。きれいごとでは言えませんが、そういう横綱も見られて、良かったなと思います。今はどうしてるんでしょうねぇ~。

中卒で角界に入った神山は土俵に別れを告げた。「この社会に入って良かったと思うことは、そうですねえ、やっぱり礼儀ですかね。それはきっちり身に着いたと思います」。

同伴者のために扉を開けてくれて、食事の時はどんなに断っても給仕をしくれた。いつも「大丈夫ですか?」と気遣ってくれる。先の展開を察して、準備をしてくれ、決してでしゃばらない。常に目配せを忘れず、一番危ういところに居て、不測の事態に備えてくれた。

そんなところが角界でも絶大な信頼につながっていた。大相撲の裏方の仕事で、もっとも神事として大切な役目が、横綱の綱打ちだった。神山は現役横綱の綱打ちを任されたばかりか、あの偉大な横綱千代の富士(元九重親方)や、横綱北勝海(現八角理事長)の還暦土俵入りの綱打ちも仕切った実績を誇る。

朝青龍、白鵬、鶴竜、稀勢の里、そうそうたる横綱の綱打ちの責任者として、現場をあずかっていた。神山の真面目で正確な仕事ぶりからすれば納得がいく。

神山には、こころから「お疲れさまでした」の言葉を贈りたい。大将軍のような朝青龍のそばに、神様のように穏やかで、山のように大きな神山がいた姿は決して忘れない。これからの人生も神山らしく、周囲へ思いやりのある、やさしい神山こと笹川さんであってほしい。【井上眞】

◆神山多呂平太(しんざん・たろへいた)1982年(昭57)1月27日生まれ、川崎市出身。川崎市立京町中学を卒業後に高砂部屋に入門。初土俵は1997年(平9)3月場所。188センチ、121キロ。最高位西三段目30枚目。得意は右四つからの寄り。