【峯岸みなみ連載1】ダンスに自信も…“序列”に削られた自尊心

CDデビューするAKB48。中央は峯岸みなみ=06年2月

<AKB48と峯岸みなみ物語>

AKB48峯岸みなみ(28)が、22日に横浜・ぴあアリーナMMで卒業コンサート「桜の咲かない春はない」を行う。

最後の1期生で、昨年12月に結成15周年を迎えたグループの“生き字引”とも言える峯岸のアイドル人生を「AKB48と峯岸みなみ物語」と題して、4回にわたって連載でお送りする。第1回は、アイドル峯岸みなみ誕生とAKB48結成。まだ誰も、社会現象を起こすグループになるとは、知るよしもない頃の話だ。【取材・構成=大友陽平】

“最後の1期生”峯岸みなみ 写真で振り返るAKBでの15年半

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アイドルになりたかったわけではなかった。ただ小さい頃から芸能界、とりわけBoAのような“かっこいいアーティスト”を志していた少女だった。

「小さい頃から習い事はたくさんやらせてもらっていました。4歳から6歳までバレエをやって、小学校に入ってからはずっとダンスをやっていました。通っていた地元のダンススクールでは、よく洋楽を使っていたり、洋楽が好きなお姉さんが多かったので影響を受けてました。小6くらいの時に、ブリトニー・スピアーズの東京ドームコンサートを見に行ったのも覚えてます。とにかくかっこいいものへの憧れが強かったですね。その当時の先生は(振り付け集団の)『air:man』に入って、CM『野菜シスターズ』(10年)の撮影で再会したのは、うれしかったです」

05年、中1の夏。オーディション雑誌で「秋葉原48プロジェクト始動!」と書かれたオーディション告知を見つけた。何者かも分からないアイドルグループに最初は興味を示さなかったが、両親から「あの秋元康さんだよ」と説得された。1次審査を通過したにも関わらず、スタッフのミスで連絡がなく、最終審査に進出するという運? も味方につけて合格した。

「受けたら受けたで、オーディションに合格したのが初めてだったので、それはすごくうれしかったのは覚えています」

05年12月8日、東京・秋葉原に新設されたAKB48劇場に板野友美(当時14)小嶋陽菜(当時17)高橋みなみ(当時14)前田敦子(当時14)らと立った。当時13歳でグループでも末っ子組だったが、ダンス経験もあり、自信はあったという。

「板橋という土地で育った割にダンスに触れたり、派手なファッションを取り入れていたりとか、『私はみんなとは違う!』と思っていました。勝ち気でしたね(笑い)。でも、ずっとダンスを習ってきて、かっこよく踊れるのに、それを(振り付けの)夏まゆみ先生には認められず…。その時って、女の子のどこが魅力かなんて分からないし、目に見える指標だけで『私の方が優れているのに!』とばかり思ってました。変なプライドがあって、夏先生に何を言われても響かなかったり、反抗期でした。自分がやりたかったことって、こういうことだったのかな? と思っていました。みんなが輝く場所に入ったら、ちっとも自分が特別な人間ではなかったことに、まだその時は気付いてなかったんです」

劇場オープン日こそ、有料観客者数は「7人」だったが、専用劇場は日に日に熱を帯びていった。20人の中で、センターに立つ者、端っこに立つ者、1列目に立つ者、3列目に立つ者…。いやが応でも生まれる“序列”を感じざるを得ない出来事も増えていった。

「活動していく中で自尊心が削られる瞬間が、たくさんありました。最初にユニットに選ばれなかったり(注)、『スカート、ひらり』を歌う選抜に一度入ったんですけど、私だけダンスが激しすぎるからという理由で外されたり…。そのメンバーで『ミュージックステーション』に出たりしていたので、外されてなかったら出られたのに…とか。その後、選抜総選挙があったり、握手会で人が並ばなかったり、さらにたたきのめされることが多くて…。期待しない方が落ち込まないと思って編み出したのが『ネガティブでいる方が楽なんだ』という、現在も持つ思考に至ります」

そもそもAKB48はメンバーにとっては、女優や歌手、タレント、モデルなどそれぞれの夢をかなえるために、日々の劇場公演で腕を磨き、“デビュー”するというコンセプトがあった。

「当時は、何か一緒に同じものを目指すというよりは、どちらかというと個人戦だったと思います。そもそもAKB48という形が安定せず、何者かも分からない中で、この中で勝てないとおいしい思いはできないってことは、何となくは分かるじゃないですか? なので、あの子よりも、この子よりも…と思っていた気がします。年齢が近いとか、ポジションが近いとか、それぞれ違ったとは思いますが、意識していた人はいました。私は年齢も近くて、ダンスが得意だった、ともちん(板野)はずっと意識していましたね」

動き始めた船は不安定で、メンバーも向いている方向がそれぞれ違った。06年4月、グループが徐々に形作られる1つのきっかけが訪れた。秋元才加(当時17)大島優子(当時17)宮澤佐江(当時15)ら2期生の加入だった。

「チームKが入ってきて、『チームA(1期生)を倒そう』みたいになるくらい、チームKのファンの皆さんも熱くて、そこで初めて、個人主義だった人たちが共通意識を持つようになったんです。もちろん、最初は人数が増えるのは嫌でしたよ。自分のファンが持っていかれるのも経験しましたし、人数が増えない方が平和だったよなとは思いました(笑い)」

06年12月には、柏木由紀(当時15)渡辺麻友(当時12)ら3期生も加入。仲間を増やしながら、小さな船は、大海原に向けて航海を始めていた。(つづく)

※注…デビュー4カ月後のオリジナル公演のユニット曲「渚のCHERRY」で、“センター”という初めての位置付けがされた中で、峯岸は前田敦子のバックダンサー役だった。(文中敬称略)