2010年7月10日、劇作家つかこうへいさんが亡くなった。62歳の若さだった。先日、10回目の命日を迎えたけれど、思い出すのは、「熱海殺人事件」「蒲田行進曲」「飛龍伝」「広島に原爆を落とす日」など、つかさんの舞台を見る度に心が震え、涙したことだった。舞台を見ることの楽しさを知ったのは、つかさんがきっかけだった。

1978年11月、演劇担当の記者になった。その時、会って取材したいと思っていた演劇人が2人いた。つかさんと寺山修司さんだった。当時、表参道にあった事務所でインタビューした。その後、「林か」と、低い声で話すつかさんの電話を何度も受けた。ある時、「今度、お前のことをエッセーに書いたから」と言われて喜んでいたら、お見合いに奔走し相手の容姿を細かくチェックする男として登場していた。もちろん、これはつかさんの創作だった。

新人記者で頼りなく思ったつかさん流の優しさと励ましだったのだろう。けいこ場では俳優をとことん追い込み「役者なんてやめちまえ」と怒鳴ることも多かったが、舞台を離れると弱い者に温かい目を向ける人だった。若手俳優の両親が見に来ることを知ると即興で見せ場を作り、困窮した人に金銭的援助も惜しまなかった。つかさんが再婚した時、元日付でライバル紙にスクープされた。消沈していた時、つかさんから電話が入って自宅に駆けつけた。「悪かったな」と謝るつかさんの傍らに再婚相手の女性もいて、単独取材した。心遣いの人だった。

韓国ソウルの「蒲田行進曲」公演を取材して帰国する時、車で空港まで送ってくれた。途中でつかさんの母の家に立ち寄り、手作りのキムチをお土産にもらった。においは強烈で「悪いな。おふくろが持って帰ってと言うから」とすまなそうなつかさんの前では断れなかった。機内に持ち込んで、周囲の人には多大な迷惑をかけたが、帰国して食べた時は、奥深い味わいにご飯を何度もおかわりした。後に「おいしかったですよ」とお礼を言うと、「そうか、そうか」とうれしそうに言うつかさんに、母(オモニ)を愛する息子金峰雄の素顔を見た気がした。

けいこ場のつかさんの前の机にはいつも白いティッシュの山ができた。ヘビースモーカーで、すぐたんが絡まり、話すそばからティッシュに手が出ていた。ティッシュの山が高くなるほど、つか節がさえ渡った。つかさんの作品には、差別やいじめを抱え込んで生きる人々への温かい目線が根底にあり、反権力、社会的弱者をテーマにしたものが多かった。「正直に生きて傷つく人のために、闘わなくちゃいけない」が口癖だった。毒気とユーモアで時代を斬(き)りまくったが、「芝居の最後はハッピーエンド」が持論だった。声を上げられない無数の人々に寄り添い続けた。

結婚した時、実は仲人をつかさんに頼んでいたが、奥さんの妊娠で、来賓としてつかさんだけに来てもらった。3時間と長い披露宴に付き合ってもらったけれど、宴が終わって、帰る時に「林、お前も大変だな」と声をかけてくれた。つかさんだから、短い時間で会社の雰囲気を把握してくれたのだろう。今年で会社を卒業するけれど、つかさんは「林、お前もよく頑張ったな」と言ってくれるだろうか。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)